映画『人生フルーツ』のネタバレあらすじ結末 | MIHOシネマ

「人生フルーツ」のネタバレあらすじ結末

人生フルーツの概要:建築家の津端修一と妻の英子の最晩年を、2年間に渡って記録したドキュメンタリー映画。何事もコツコツと自分でやることをモットーにして、スローライフを体現してきた夫婦の日常には、経済中心の社会が失ってしまった豊かな時間が流れていた。東海テレビが製作し、日本放送文化大賞テレビ部門でグランプリを受賞した珠玉のドキュメンタリー。

人生フルーツの作品情報

人生フルーツ

製作年:2006年
上映時間:91分
ジャンル:ドキュメンタリー
監督:伏原健之

人生フルーツの登場人物(キャスト)

津端修一
建築家で元大学教授。撮影開始時は90歳。創設時の日本住宅公団に就職し、愛知県にある高蔵寺ニュータウンを設計した。自身もそこに土地を購入し、40年以上そこで暮らしている。何事もコツコツと自分でやることが大事だと考え、自然と共生しながら、人間的な営みを続けている。
津端英子
87歳になる修一さんの妻。家事全般が得意で、何でも手間暇を惜しまず手作りする。中でも料理の腕は優れており、日々のお惣菜からお菓子やジャムや乾物まで、全て自分で作る。修一さんの「おいしい」という一言が何より嬉しい。

人生フルーツのネタバレあらすじ

映画『人生フルーツ』のあらすじを結末まで解説しています。この先、ネタバレ含んでいるためご注意ください。

人生フルーツのあらすじ【起】

4万5千人の人々が暮らす愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウン。90歳になる建築家の津端修一さんは、87歳になる妻の英子さんと共に、このニュータウンの一画にある平屋の一軒屋で暮らしている。

300坪ある敷地には、赤い屋根の母屋と農作業小屋、そして雑木林と果樹園と畑がある。30畳一間のモダンな造りになっている母屋は、尊敬する建築家、アントニン・レーモンドの家を真似て、修一さん自身が設計した。築40年の夫婦の住まいは、著名な建築家のル・コルビュジエが遺した「家は暮らしの宝石箱でなくてはならない」の言葉通り、いかにも居心地の良さそうな空間が広がっている。

夫婦は果樹園や畑の土を耕し、70種類の野菜と40種類の果実が育てている。物作りが大好きな修一さんは、庭中にお手製の黄色い立て札を立て、どこに何があるのかを一目で判別できるようにしている。修一さんの立て札には、ユーモアセンス溢れる一言やイラストが添えてある。例えば、庭に置いた水鉢の前の立て札には、「小鳥の水 どうぞ!」という言葉と可愛い小鳥のイラストが描かれている。修一さんが毎日10通ほど書く手紙にも、必ず色付きのイラストが添えられていた。

料理上手の英子さんは、果樹園や畑で収穫した作物を手間暇かけて料理し、日々の食卓に並べている。修一さんは、英子さんの作るご飯やおやつが大好きで、毎日たくさん食べてくれる。英子さんには、それが何よりも嬉しい。

1950年、当時東京大学のヨット部に所属していた修一さんは、国体に出場するため、愛知県半田市を訪れる。その時寝泊まりさせてもらったのが、英子さんの実家の造り酒屋だった。2人は5年の交際期間を経て、1955年に結婚。結婚当時は、とにかくお金がなかったが、英子さんは質屋通いをしながら、修一さんにやりたいことをやらせてあげた。修一さんが月給4万円の時代に70万円もするヨットを購入した時も、英子さんは文句ひとつ言わなかった。その代わり、修一さんも英子さんのやりたいことには何でも賛成してくれた。夫婦はそんな風にお互いを思いやり、60年近く暮らしてきた。

人生フルーツのあらすじ【承】

さくらんぼの実がなると、夫婦で力を合わせてそれを収穫し、英子さんがお手製のジャムを作る。英子さんは、「なるべく修一さんのいいようにしてあげたい、おいしいものを食べさせてあげたい」という想いで、修一さんに尽くしている。修一さんは、「面倒臭がらずに何でも自分でやることが大事、コツコツやれば何かが見えてくる」というのを人生のモットーにしており、英子さんもその方針に従ってきた。そんな修一さんをずっと見つめてきた英子さんは、最近修一さんがとてもいい顔になってきたと思っている。

終戦後、修一さんはアントニン・レーモンドの事務所に勤務した後、1955年、創設時の日本住宅公団に入社する。1959年、5000人以上の犠牲者を出した伊勢湾台風で、愛知県の平野部は大打撃を受ける。これを受け、1960年に究極の高台移転として高蔵寺ニュータウン計画が始まり、日本住宅公団のエースだった修一さんが、その設計を任される。修一さんは、町の中に雑木林を残し、風の通り道を作るという夢の計画を立てるが、結局は経済優先主義の方針が取られ、修一さんの理想とは程遠いニュータウンが完成してしまう。修一さんはこの挫折により、都市計画の建築の場から距離を置くようになる。

1970年、修一さんは一家で高蔵寺ニュータウンの賃貸住宅に入居し、75年にはニュータウン内に300坪の土地を購入する。修一さんは、個人が里山の一部を作る感覚で小さな雑木林を持てば、ニュータウン全体が森に近い雰囲気になると考える。それを自ら実験するため、購入した土地に木を植え、それを大事に育ててきた。修一さんは、自分が計画したニュータウンに住もうとしない日本の建築家や都市計画家は、無責任なインチキが多いと思っている。修一さんは、そういう不誠実な専門家を軽蔑している。

毎月の年金が振り込まれる日、英子さんはバスと電車を乗り継いで、名古屋市内の市場へ買い出しに行く。英子さんは、信用できる人が仕入れた野菜や魚や肉などを、その市場で買い揃える。特に修一さんの好きなお魚類は、決してケチらずに良い物を買う。夫にきちんとしたものを着せて、きちんとしたものを食べさせていれば、回り回って自分も良くなるというのが、英子さんの実家の教えだった。

英子さん自身はジャガイモが苦手だが、修一さんはジャガイモが大好物なので、英子さんはコロッケや肉ジャガなどのジャガイモ料理をよく作る。40年来愛用してきた土鍋で煮込んだジャガイモ入りのビーフシチューも、修一さんの大好物だった。「おいしいね」と言われると、英子さんはとても嬉しそうに「そうですか、良かったですね」と答える。

人生フルーツのあらすじ【転】

修一さんと英子さんの本が台湾で発売されることになり、2人はサイン会のために台北市を訪れる。2人にとっては、人生で2度目の海外旅行だ。修一さんはちゃんとイラスト入りのサインをして、ファンの人たちの想いに応える。現地の取材では、英子さんのことを「最高のガールフレンド」と表現していた。

親北市にある海沿いの淡海ニュータウンは、25年前に修一さんも計画に関わった。しかし、ここも理想とは程遠い高層団地になっており、修一さんは残念がる。

第二次世界大戦中、修一さんは海軍技術士官として、戦闘機の設計をしていた。その時、工場で戦闘機を作っていたのは、台湾から連れてこられた15歳前後の少年工で、彼らは粗末な寄宿舎で集団生活をしていた。修一さんは、自分だけ贅沢な海軍宿舎で暮らすのが嫌で、少年たちの寄宿舎の2階に間借りして彼らと寝食を共にしていた。その時、弟のように可愛がっていたのが陳清順という少年で、彼は修一さんに手作りの判子をプレゼントしてくれた。修一さんは、1945年に陳さんからもらった判子を、今でも大切に使っている。

終戦後、陳さんは祖国の台湾へ帰り、行方が分からなる。修一さんは最近になって、陳さんが1950年に政治犯として銃殺刑に処されていたことを知る。今回の台湾旅行のもうひとつの目的は、その陳さんのお墓参りをすることだった。修一さんは、陳さんの粗末なお墓の隣に大事にしてきた判子を埋め、花を供えて歌を歌う。それは、陳さんとよく一緒に歌った歌だった。歌いながら、修一さんは涙を流す。

高蔵寺に戻った2人は、またいつもの生活に戻る。津端家の裏にある高森山には緑豊かな森があるが、40年前はハゲ山だった。修一さんが地域の人々に高森山の再生を呼びかけ、1972年に約1万本のドングリの木を植えるという運動が始まる。そのおかげで、高森山は緑豊かな山に蘇った。修一さんはいつも自分から呼びかけ、それが軌道に乗ると身を引く。

修一さんと英子さんは、大学生になった孫のはなこさんをとても可愛がっている。修一さんは、はなこさんが幼い頃、木製のドールハウスを作ってあげた。それは4階建ての立派なドールハウスで、家具から小物まで全て修一さんの手作りだった。英子さんは、ひとり暮らしをしているはなこさんのために、月に1度は手作りのお惣菜を送っている。そのお惣菜の数々には、なるべく外食を控え、体に良い物を食べて欲しいという英子さんの願いが込められていた。2人がせっせと畑を耕して良い土を作るのも、はなこさんたち次の世代のためだった。

人生フルーツのあらすじ【結】

可愛いはなこさんも無事に大学を卒業し、修一さんと英子さんはホッとする。桜の季節が過ぎ、いつもの日常が続いていた2015年6月2日。修一さんは畑の草むしりをした後、昼寝したまま起きてこなかった。修一さんは住み慣れた我が家で、静かに永眠していた。

葬儀などはせず、英子さんと娘さんたちだけで、修一さんのお見送りをする。賑やかなことが好きだった修一さんのために、娘さんたちは庭に修一さんお手製の旗を飾った。修一さんは、とても安らかな顔をして、自宅のベッドで眠っている。最後のお別れの時、英子さんは修一さんに「待ってて、私がそっちへ行ったら、一緒に灰になって南太平洋に撒いてもらおうね、また会えるのを楽しみにしています、それまで一生懸命やりますから」と、涙ながらに語りかける。

1人になった英子さんは、修一さんと築き上げてきたこの家を守るため、一生懸命働く。修一さんが生前に集めていた落ち葉を土に返し、高い窓の開け閉めをこなし、障子の張替えもサボらない。しかし、台風で折れた木の後始末をしたり、高い木に実った果実を収穫することは、年老いた英子さんにとって大変なことだった。雑木林の木が伸びすぎて、周囲に迷惑をかけるかもしれないと判断した英子さんは、業者に頼んで木の枝を切ってもらう。そんな時、英子さんは修一さんに「わかってね、ごめんなさいね」と心の中で詫びていた。

修一さんがいつも小鳥のために水を満たしていた水鉢が割れてしまい、娘さんはショックを受ける。本当は、英子さんが1番ショックを受けていたのだが、彼女は気丈に振る舞う。どんな時でも修一さんの都合を第一に考えて生きてきた英子さんにとって、1人の生活というのは、寂しいというより虚しいものだった。それでも、修一さんに一生懸命やると約束したので、英子さんは懸命に日々を生きる。

そんなある日、佐賀県の伊万里市から訪問客がやってくる。修一さんは、伊万里市にある「山のサレーナ・クリニック」という精神科の療養施設の設計を人生最後の仕事と決め、ボランティアでその仕事に取り組んでいた。修一さんの突然の訃報には、依頼主もショックを受けていた。しかし、英子さんと話すことで具体的な全体像が見えてくる。そして、修一さんが亡くなってから8ヶ月後、新しい施設の建設が始まる。修一さんは、経済中心の社会の中で心を病んでしまった人たちのために、自然と共生しながらゆっくり再生できる施設をデザインしていた。そしてその図案には、「できるものから小さくコツコツ、ときをためて、ゆっくり」という、修一さんらしい言葉が添えられていた。

英子さんは、今でも修一さんのために手間暇かけてご飯を作っている。修一さんの大好きだったコロッケを作った時は、遺影の前にコロッケを置きながら、「あったかいうちに食べて下さい」と自然に声をかけていた。それが2人の自然の営みなのだ。修一さんは、今でも英子さんの中で生き続けている。

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