映画『天井桟敷の人々』あらすじとネタバレ感想

天井桟敷の人々の概要:「天井桟敷の人々」(てんじょうさじきの ひとびと、原題:Les enfants du Paradis「天国の子供たち」)は、1945年のフランス映画。監督は「ジェニイの家」、「悪魔が夜来る」のマルセル・カルネ。脚本は同じく「悪魔が夜来る」のジャック・プレヴェール。主演はジャン=ルイ・バロー。共演にはアルレッティ、ピエール・ブラッスール、マルセル・エラン、マリア・カザレス、ルイ・サルー、ピエール・ルノワールなど。

天井桟敷の人々 あらすじ

天井桟敷の人々
映画『天井桟敷の人々』のあらすじを紹介します。

第1部「犯罪大通り」: 1840年のパリはタンプル大通り。通称”犯罪大通り”で裸の見せ物を自らの売りにしている女芸人ガランス(アルレッティ)は、パントマイム役者のバチスト(ジャン・ルイ・パロー)と知り合い、バチストは彼女を恋するようになった。無頼漢ピエール・フランソワ(マルセル・エラン)や俳優フレデリック・ルメートル(ピエール・ブラッスール)もガランスに恋していた。バチストの出ている芝居小屋「フュナンピュール」座の座長の娘ナタリー(マリア・カザレス)は、バチストに想いを寄せていた。ガランスに想いを寄せアプローチを繰り返しながらもバチストの愛はあまりに純粋であり、二人は結ばれることはなかった。ラスネールといざこざを起したガランスは「フュナンビュール」に出演するようになった。ガランスの妖艶な美貌にモントレ-伯爵(ルイ・サルー)が熱をあげた。

第2部「白い男」: 5年後、バチストはナタリーと結婚し一子をもうけていた。ガランスはモントレ-伯爵と結婚していた。人気俳優になったフレデリックの計らいでバチストはガランスに劇場のバルコニーで会うことが出来た。一方、劇場で伯爵に侮辱されたフランソワは風呂屋で伯爵を襲って殺害する。その後、バチストは想い出の部屋でガランスと一夜を過ごすも、翌朝にバチストの前に現れたナタリーと子供の姿を見たガランスは別れる決心をした。カーニバルで雑踏する街を去るガランスを追ってバチストは彼女の名を呼び続けたが、その声も空しくカーニバルの群衆に飲み込まれてしまった。

天井桟敷の人々 評価

  • 点数:95点/100点
  • オススメ度:★★★★★
  • ストーリー:★★★★★
  • キャスト起用:★★★★★
  • 映像技術:★★★★☆
  • 演出:★★★★★
  • 設定:★★★★★

作品概要

  • 公開日:1945年
  • 上映時間:195分
  • ジャンル:ヒューマンドラマ
  • 監督:マルセル・カルネ
  • キャスト:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレス、マルセル・エラン etc

天井桟敷の人々 ネタバレ批評

映画『天井桟敷の人々』について、感想批評です。※ネタバレあり

フランス映画史に残る知らぬ者のない名作である

プレヴェール=カルネの作品の中でも、複雑な人間ドラマの中に介在するロマンチシズム、混沌とした19世紀パリの文化を巧みに表現した、フランス人にとっての永遠の一作と言えるだろう。バチスト(ジャン・ルイ=バロー)のピュアな人間性に反するような、ガランス(アルレッティ)の妖しく官能的な女性像に加え、その周辺にまとわりつくように絡んでくる個性的な面々が何とも魅力的である。妖艶なバチストのパントマイム演技も素晴らしく、世界中の舞台役者に影響を及ぼしたというのも頷ける表現力である。マルセル・カルネ監督がドイツ占領下の1943年に撮影を開始し、1945年公開された作品であり、戦禍の状況にありながらもこの傑作を作った製作者たちの映画に対する情熱は敬意に値する。詩的でシニカルなセリフにも過剰表現と言えるほどの思い入れが垣間見え、エンターテインメントとしての要素が凝縮されて詰め込まれている傑作である。

単なる恋愛悲劇ではない

奥ゆかしさのあまりにタイミングを逸してしまったバチストと、優しさゆえに並み居る男たちのアプローチを断れなかったガランスのすれ違いが生んだ悲劇であることは疑いようがないのだが、本作の視点はその悲劇とも喜劇とも捉えられる部分を、正しく天井桟敷から俯瞰で眺めるような茶番劇として扱っているところであろう。第二部で6年の時間を超えて愛を貫いたように思われた二人だが、そのまま結ばれてしまったらナタリーとバチストの存在はこの映画をカタルシスから遠ざけたろう。本作の中では最も周辺の出来事を俯瞰的に捉えていた謎の無頼漢フランソワの視点が、映画監督的な目線ではないかと感じてしまうのだ。彼のセリフは全てにおいて二律背反というところで物事を捉え、自分の書いている戯曲も喜劇でもあり悲劇でもあるという部分を強調している。そしてバチストの妻であるナタリーも、バチストの恋狂いも一時のものであり、いつかは自分のところへ帰ってくると言う確信に満ちた想いで語っている。バチストにしてもガランスにしても、互いの人生がすでに違う方向を歩み始め、今さら取り戻すことの出来ない無情さを映画のシーンに反するような共演者の語り口が表現する。二人が口にした6年越しの想いというのは、その場しのぎの思いつきで出て来たご都合主義的なセリフにしか思えないのだ。その臭いセリフをあざ笑うかのように、最後にガランスを追いかけるバチストの姿が、カーニバルの人並みに阻まれるように混沌とした町並みに飲み込まれてシーンを、茶番劇と言わずに何と表現できるのだろうか。それを正しく茶番と言わしめるように、馬車に乗って去って行くガランスの表情が淡々としており、恋を成就できなかった女の悲哀は欠片もない。それに反するように、群衆に飲み込まれて行くバチストだけが最後まで悲しかった。フランソワがガランスの夫である伯爵を殺し、二人の間を手引きしたような展開であるが、それはドラマを喜劇的な方向へ導くための手段であったのか、それとも悲劇を見たかったのかは全く謎のままであるが、少なくともフランソワという男が描くシナリオの上で成り立っている作品として捉えるならば、二律背反を旨とする彼らしい物語の顛末に仕上がった見事なエンディングではないだろうか。

天井桟敷の人々 感想まとめ

大衆演劇であるパントマイムの原点が本作には凝縮されている。よく言われる”ピエロの悲哀”というものをこれほどリアルに描かれたエンターテインメントは本作以降も見られないだろう。主人公のパントマイマーであるバチストは、仕事でも実生活でも正しくピエロそのものであり、頑ななまでに表現を追究する名人である。その周辺に集まる人物像は欲望の権化のようなリアルさで描かれ、ヒロインとして存在するガランスにしても、恋愛ドラマの主役に似つかわしくないような、裸を見せ物にしていた酸いも甘いも噛み締めたオバサンである。混沌としたパリの街で、様々な思惑を抱えた人間たちの中で生きる純粋無垢なピエロの悲哀を茶番劇に内包させ、劇場の一番高い天井桟敷から他人事のように眺め、笑い飛ばす聴衆の視点で描かれたシニカルな人生劇場である。時代的にモノクロ作品であるのは仕方がないところであるが、映画としての引力には感服させられてしまう。

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