映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』の概要:1970年の春、作家を目指して函館から上京し、身を削るようにして書くことの重さと生きた作家・佐藤泰志の半生を追った2013年公開のドキュメンタリー映画。佐藤の小説「そこのみにて光輝く」を2014年に呉美保監督が映画化し、国内外で数多くの賞を受賞した。
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』の作品情報
上映時間:91分
ジャンル:ドキュメンタリー
監督:稲塚秀孝
キャスト:佐藤泰志、村上新悟、加藤登紀子 etc
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映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』の登場人物(キャスト)
語りを仲代達矢が務め、作品内の再現ドラマでは佐藤泰志を村上新悟、佐藤の母親・幸子を加藤登紀子が演じている。佐藤と交流のあった仕事関係者や友人が数多く出演し、生前の佐藤を語っている。
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』のあらすじ【起】
第一章 きみの鳥はうたえる
佐藤泰志の小説「きみの鳥はうたえる」は、昭和56年(1981)下期の芥川賞候補作品となる。佐藤は1年前に東京から故郷の函館に戻っていた。母親・幸子の体調がすぐれないことがきっかけだったが、佐藤は故郷でやり直したいと考え、職業訓練校で大工見習いの修行を始めていた。
昭和57年1月18日。第86回芥川賞最選考会の日。東京築地の料亭には文壇を代表する重鎮から中堅まで9名(残り1名は体調不良により欠席)の作家が集まっていた。候補作は佐藤の「きみの鳥はうたえる」を含めて全部で8作品。飛び抜けた秀作がなく、選考は難航する。丸谷才一は佐藤の作品を推してくれたが、審査員の総意は“該当者なし”となる。函館で数名の記者と一緒に結果の電話を待っていた佐藤と幸子は、丸谷才一が褒めてくれたという報告に慰められる。
佐藤の両親は青函連絡船に乗って青森から函館へ闇米を運ぶ「担ぎ屋」を生業とし、佐藤と妹を育て上げた。幸子にとって子供たちにいい教育を受けさせることが大きな目標であり、幸子は誰よりも作家として息子が認められることを喜んでいた。佐藤はそんな母親に感謝しつつ、東京へ戻る決意をする。
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』のあらすじ【承】
第二章 多感な青春
昭和41年(1966)。函館西高校の2年生だった佐藤はいつも裸足に下駄で登校し、校内も裸足で歩く個性的な生徒だった。文芸部に所属(男子部員は佐藤のみ)しており、「青春の記憶」という小説で有島青少年文学賞優秀賞を受賞する。この作品は新聞に掲載され、佐藤は友人たちと酒盛りをしてお祝いをする。佐藤はこの頃から文学で飯を食っていこうという強い意志を持っていた。
高校3年生になり、佐藤はジャズ喫茶へ入り浸るようになる。タバコも吸うようになり、学校の屋上で喫煙しているところを見回りの先生に見つかり、2週間の停学処分となる。その2ヶ月後にはパチンコが原因で無期停学となり、佐藤は行方をくらませてしまう。佐藤は1人で札幌へ行き、そこでカレーを食べてすぐに帰ってきたが、担任の長谷川先生はそんな佐藤を親身に心配してくれた。
長谷川先生に励まされ、佐藤は執筆活動に力を入れる。ベトナム反戦や学生運動に刺激を受けた佐藤は「市街戦のジャズメン」という小説で再び有島青少年文学賞優秀賞を受賞。しかし今回の作品は内容が高校生としてふさわしくないという理由で新聞には不掲載だった。翌年の春、内容を加えた「市街戦のジャズメン」は「北方文芸」に掲載される。
昭和45年(1970)の春。20歳になった佐藤は進学のため、生まれ育った函館の町を離れて上京する。
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』のあらすじ【転】
第三章 作家への道
国学院大学文学部哲学科へ入学した佐藤は、中野のアパートでひとり暮らしをしながら作家への道を歩み始める。函館西高の友人や後輩たちに声をかけ同人誌「黙示」を立ち上げるが、これは内容が佐藤のイメージからずれてしまい頓挫する。その後「立待」という文学同人誌を立ち上げ、佐藤はこの同人誌作りに力を注ぐ。卒業前に佐藤を訪ねてきた両親にも小説家になることを改めて告げた。
学生結婚をしていた佐藤は公務員を目指すが叶わず、様々なアルバイトをして食いつなぐ。札幌在住の作家・澤田誠一は佐藤に目をかけており、昭和51年(1976)「深い夜から」で北方文芸賞佳作を受賞した佐藤に、中央の文芸誌を目指すようアドバイスする。これにより佐藤は文芸誌の新人賞を目指すようになるが、この頃から精神の不調を訴え始める。
その後、大学生協の調理員と成田国際空港建設に反対する三里塚の農民のため援農をしながら執筆を続ける。昭和52年(1977)「移動動物園」が新潮新人賞候補作に選ばれ、その3年後「もうひとつの朝」が優秀な同人誌掲載作品に贈られる作家賞を受賞。上京から10年が経過し、佐藤は4人家族になっていた。
昭和57年(1982)「空の青み」が2度目の第88回芥川賞候補となるが落選。第89回芥川賞候補「水晶の腕」の時は該当作なし。第90回芥川賞候補「黄金の服」は落選。この頃から新聞の書評を書く仕事も始める。5度目の挑戦となった第93回芥川賞候補「オーバー・フェンス」でも該当作なしとなり、佐藤の芥川賞受賞の夢は潰える。佐藤が芥川賞候補に選ばれた時期(81年〜85年)は8回中5回が該当作なしと判断された特異な時期だった。
平成元年(1989)初めての長編小説「そこのみにて光輝く」が第2回三島由紀夫賞の候補作となるが、これも受賞は叶わず。しかし文芸評論家の江藤涼は、受賞作は「そこのみにて光輝く」しかないと佐藤の小説を評価していた。
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』の結末・ラスト(ネタバレ)
第四章 海炭市叙景
昭和63年(1988)、青函連絡船が80年の役目を終えて終航した年の秋。佐藤は函館を思わせる北の町「海炭市」で生きる名もなき36人の人生模様を書くという連作の構想を練り、雑誌「すばる」に連載を開始する。佐藤はこの36人を書くことで自分の作家活動を総括し、ひとつの区切りをつけたいと考えていた。
しかし計6回、18篇を書き上げたところで断続的連載を打ち切られてしまう。「すばる」の編集部は残りの18篇はまとめて書いて欲しいと考えていたが、それが完成することはなかった。平成2年(1990)、佐藤は自ら命を絶ち、41年の生涯を終える。亡くなる年の3月に佐藤は“もう書くことがないんだ”と後輩の女性に明るく語ったという。遺稿となった「虹」の原稿を渡した編集者とは“これで年末の宝くじが買えますよ”と冗談を言って別れている。
佐藤の死の真相は誰にもわからないが、佐藤泰志という作家は書くことの重さに人として向き合うにはあまりに誠実で真摯すぎたのかもしれないと多くの人が感じていた。作家・佐藤泰志は精一杯その仕事を全うし、その役目を終えた。
映画『書くことの重さ 作家 佐藤泰志』の感想・評価・レビュー
「書く」という事に真面目に向き合って生きた作家、佐藤泰志の生涯を描いた今作。作家という仕事について全くの無知である私ですが、今作を見て「作家」として生きた彼のひたむきさや真摯さに感銘を受けました。
書くことの重さを知った彼は真面目であるが故にその重さを100%1人で背負い、その重さから逃げられず「死」を選んだのかなと感じました。
悲しい結末ではありますが、彼は「書く」ことに人生をかけていて、彼の残した「もう書くことがないんだ」という言葉の本心は生きていく意味が見いだせないと言うことなのかなと考えてしまいました。(女性 30代)
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