この記事では、映画『セッション』のあらすじをネタバレありの起承転結で解説し、この映画の疑問や謎をわかりやすく考察・解説しています。
映画『セッション』の作品情報
出典:U-NEXT
製作年 | 2014年 |
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上映時間 | 107分 |
ジャンル | ドラマ 音楽 青春 |
監督 | デイミアン・チャゼル |
キャスト | マイルズ・テラー J・K・シモンズ ポール・ライザー メリッサ・ブノワ |
製作国 | アメリカ |
映画『セッション』の登場人物(キャスト)
- アンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)
- 名門のシェイファー音楽院でドラムを専攻している青年。名ドラマーのバディ・リッチのようになるのが小さいころからの夢。トップの座を獲るためなら厳しい練習もいとわない努力家だが、自分の才能を信じるあまり、周りの人を見下すことも多い。
- フレッチャー(J・K・シモンズ)
- シェイファー音楽院内でも有名な鬼教師。数々のコンテストで優勝している、学内トップのジャズバンドを指揮している。常に完ぺきを求め、名演奏家を育てるためならば生徒への罵倒・暴力もいとわない。
- ジム・ニーマン(ポール・ライザー)
- アンドリューの父。アンドリューはバディ・リッチ好きな父親の影響でドラマーを志した。アンドリューの夢を応援し、陰から支えている。教員をしており、妻には出ていかれている。
- ニコル(メリッサ・ブノワ)
- アンドリューと父が通う映画館の売店で働く女子大生。アンドリューにデートに誘われ、付き合うことになる。音楽とは無縁。
- ライアン(オースティン・ストウェル)
- アンドリューが元々所属していた学内バンドの主奏ドラマー。アンドリューは普段彼の楽譜めくりを担当していた。自信家でややチャラチャラしたところがある。
- カール(ネイト・ラング)
- フレッチャーが指揮する学内バンドの主奏ドラマー。アンドリューはこのバンドに移ってからも彼の楽譜めくりをさせられる。病気で記憶力が弱く、暗譜ができない。
映画『セッション』のネタバレ・あらすじ(起承転結)
映画『セッション』のあらすじ【起】
国内でも屈指の名門音学校、シェイファー音楽院。ここに通うアンドリュー・ニーマンは、子どものころからの夢であるドラマーを目指し、スタジオでひとり猛練習をしていた。そこへ学内でも有名な鬼教師、フレッチャー教授が現れる。彼は学内トップのジャズバンドで指揮をしており、彼に見初められればプロにスカウトされる道がぐっと近づく。アンドリューは緊張するが、フレッチャーは少し彼の演奏を見て、何も言わず行ってしまった。
アンドリューは普段、学内で他の教授が指揮するバンドに所属している。そこでのドラムの主奏者はライアンだ。アンドリューは彼の楽譜めくりをさせられることが多かった。ふとアンドリューが気づくと、フレッチャーらしき人影が部屋を覗いている。
次の日、フレッチャーがアンドリューのバンドを訪れた。フレッチャーは1人ずつ演奏させていき、アンドリューにもドラムを叩かせる。去り際、フレッチャーはアンドリューに自分のバンドに移るよう命じる。フレッチャーに才能を認められたと、アンドリューはほくそ笑む。
アンドリューは父のジムとよく行く映画館のアルバイト・ニコルをデートに誘い、成功する。
映画『セッション』のあらすじ【承】
フレッチャーのバンドでの初日。バンドには元々主奏者のカールがおり、アンドリューはここでも楽譜めくりをすることに。曲はジャズの「ウィップラッシュ」。元いたバンドとはケタ違いのレベルの高さに、アンドリューは圧倒される。フレッチャーはとても厳しく、音程がずれているかわからなかった生徒をバンドから追い出してしまった。練習後、フレッチャーはアンドリューに親しげに話しかける。
次の日、アンドリューに演奏する機会が回ってきた。フレッチャーにべた褒めされてにやりとするアンドリューだったが、わずかにテンポがずれたことをきっかけに、フレッチャーに何度もやり直させられる。しまいにはイスを投げつけられ、罵倒され、ビンタまでされてしまう。アンドリューは泣き出してしまった。自分の未熟さを思い知らされ、アンドリューは悔しながらに自主練をする。そのスティックを握る指は血だらけになっていた。
ニコルとのデートの日。アンドリューとニコルは会話が弾む。ニコルは地方から出て来た大学生だった。2人の付き合いが始まった。
フレッチャーのバンドは、シェイファー音楽院の代表としてジャズコンテストに出場する。主奏者のカールに楽譜を預けられたアンドリューだったが、楽譜を失くしてしまった。病気の症状で譜面を覚えていないカールに代わり、急きょアンドリューがステージに立つことになる。練習の甲斐あって、フレッチャーを満足させる演奏をすることができた。シェイファー音楽院は優勝し、コンテスト翌日、フレッチャーはアンドリューを主奏者にする。
映画『セッション』のあらすじ【転】
バンドでは大会に向け、ジャズの名曲「キャラバン」の練習が始まった。非常に速いテンポでドラムを叩く必要がある。フレッチャーはライアンをスカウトして来た。彼をべた褒めするフレッチャーに、アンドリューは焦りを感じていた。練習に打ち込むために、アンドリューはニコルを一方的に振ってしまう。
フレッチャーは、自分が才能を見いだし育てたトランペット奏者のショーン・ケイシーが、事故で亡くなったと語る。練習が始まり、フレッチャーはカール・ライアン・アンドリューに順番に演奏させる。3人ともテンポが追いついていないと、猛烈なしごきが始まった。長時間のしごきの末、アンドリューが主奏者の地位を勝ち取る。
大会当日、アンドリューの乗るバスが故障、彼はレンタカーで会場へ急ぐ。何とか間に合ったがライアンに主奏者の座を奪われていた。しかもスティックをレンタカー店に置き忘れてしまった。アンドリューは退学覚悟で主奏者の約束を取り付け、スティックを取りに戻るが、車が事故に遭ってしまった。
全身血だらけで、アンドリューはドラムの前に座る。演奏が始まったが、血でスティックが滑り落ちてしまう。ドラムの音が消え、演奏を中止せざるを得なくなったフレッチャーは、その場でアンドリューに「お前は終わりだ」と告げる。アンドリューは逆上してフレッチャーにつかみかかり、退学に追い込まれてしまった。
ジムは息子のために、フレッチャーのいきすぎた教育法を学校に訴えることにする。弁護士によると、フレッチャーの教え子・ショーン・ケイシーは、彼のせいでうつ病になり自殺したのだそうだ。匿名は守られると知り、アンドリューはフレッチャーから受けた教育について告白することにする。
映画『セッション』の結末・ラスト(ネタバレ)
音楽院を退学になり、アンドリューはドラムをやめた。ふとアンドリューは、フレッチャーがジャズバーでピアノを弾いているのを発見する。アンドリューの告げ口が原因で、フレッチャーは音楽院をクビになっていたのだ。アンドリューに気づいたフレッチャーは、彼を飲みに誘う。
誰かの告げ口で音楽院をクビになったこと、偉大な音楽家を育てることへの情熱などを語ったフレッチャーは、アンドリューを自分のアマチュアバンドに誘う。今度開かれるジャズ・フェスティバルに一緒に出てほしいと言うのだ。曲はアンドリューが叩ける「ウィップラッシュ」と「キャラバン」。アンドリューは、再びドラムへの情熱を取り戻した。
自分の態度を悔いたアンドリューは、ニコルに電話する。しかし彼女はもう別の男性と付き合っていた。
ジャズ・フェスティバル当日。プロのスカウトも来ている。バンドの演奏が始まった。しかし演奏曲は、アンドリューの知らない難解な変拍子のものだった。アンドリューは楽譜もなく必死に食らいつくが、大失敗してしまう。そう、これはアンドリューの告げ口に気づいていたフレッチャーの罠だったのだ。
プロへの道を絶望的にされたアンドリューは、舞台袖にひっこみ父に抱きしめられる。しかし負けたままでは終われない。アンドリューはもう一度舞台に上がる。そして曲紹介を無視し、「キャラバン」を叩き始める。他の奏者もそれに合わせ始め、演奏を続けざるを得なくなったフレッチャーは仕方なく指揮をする。アンドリューは長いドラムソロを叩き始めた。最初は怒り心頭だったフレッチャーも、彼のソロを聴くうちに真剣に指揮をし始め、倒れかけたシンバルを元に戻す。ついにドラムソロは最高潮を迎えた。その瞬間、フレッチャーの口元に満足げな笑みが浮かぶのだった。
映画『セッション』の考察・解説(ネタバレ)
映画『セッション』で、主人公が叩くドラムは下手?
『セッション』という映画の中で、主人公アンドリューが演奏するドラムは決して「下手」とは言えません。しかし、彼が直面する課題は、技術的な未熟さや完璧を求めるプレッシャーとの戦いです。音楽学校に通う優秀な学生であるアンドリューは、映画の中で情熱的かつ高度な技術でドラムを叩きます。
問題は、彼の指導者であるフレッチャーが求める水準があまりにも高すぎることです。フレッチャーは常に完璧を求め、それに達しないアンドリューを厳しく叱責します。激しい練習の中で、アンドリューは血まみれになりながらもドラムを叩き続け、精神的にも肉体的にも追い詰められていきます。
つまり、アンドリューの演奏が「下手」なのではなく、彼が完璧を目指す過程で苦悩する姿が描かれているのです。観客の目から見れば、アンドリューは非常に才能のあるドラマーですが、フレッチャーの指導の下でその才能を極限まで引き出そうとしている様子が印象的に映ります。
『セッション』で「下手」とされるのは、フレッチャーの異常なまでの完璧主義が原因であり、アンドリュー自身の技術力が劣っているからではありません。彼は非常に高い演奏能力を持っているのです。
映画『セッション』の登場人物は、その後どうなる?
『セッション』の結末では、主人公アンドリューと彼の厳格な指導者フレッチャーが衝突と和解の瞬間を迎えますが、その後の二人の人生については明確には描かれていません。ラストシーンで、アンドリューは舞台上で圧巻のドラムソロを披露し、フレッチャーと目を合わせて無言の理解を交わします。このシーンは、彼らの関係がある到達点に達したことを示唆しており、アンドリューがついにフレッチャーの期待に応え、完璧な演奏を成し遂げたことを意味しています。
しかし、二人がその後どのような道を歩むのかは、観客の想像に委ねられています。おそらくアンドリューは音楽家としてのキャリアを続けていくことでしょう。映画全体を通して描かれた彼の努力と情熱は、音楽の世界で成功を収めるための強い決意を示唆しています。彼はこれからも音楽への道を追求し続けるに違いありません。
一方、フレッチャーについては、彼が厳格な指導者としての立場を維持するのか、それともアンドリューの演奏に感銘を受けたことで指導方針に変化が生じるのかは定かではありません。映画のラストはあえて曖昧に描かれているため、二人の将来について詳しいことは分かりません。観客はそれぞれの解釈で物語を想像することになります。
映画『セッション』には怖いシーンがある?
『セッション』にホラー映画のような「怖い」シーンは登場しませんが、フレッチャーがアンドリューに対して行う厳しい指導や精神的圧力は、一部の観客にとって恐ろしく感じられるかもしれません。フレッチャーは冷酷で暴力的な言葉を使ってアンドリューを追い詰めます。彼の指導法は常に恐怖と緊張感に満ちており、アンドリューが期待に応えられないと激しい怒りや屈辱的な言葉で攻撃するのです。
例えば、フレッチャーがアンドリューに椅子を投げつけるシーンや、テンポを確かめるために厳しくドラムを叩かせ続ける場面などは、フレッチャーの冷酷さと圧倒的な支配力を際立たせています。こうしたシーンは観客に強い不安感や緊張感を与え、精神的な恐怖すら感じさせるかもしれません。
また、アンドリューが限界まで追い込まれ、血を流しながらもドラムを叩き続けるシーンは、身体的な痛みと精神的なプレッシャーが重なり合い、観る者にとって非常にストレスフルな場面となっています。これらのシーンはフレッチャーの非情さとアンドリューの苦悩を象徴しており、直接的な恐怖ではないものの、極度の緊張感を引き起こす印象的な場面だと言えます。
映画『セッション』はなぜ「ひどい」と言われるのか
『セッション』が「ひどい」と評されることがあるのは、登場人物のフレッチャーが取る教育方法や、物語全体が描く極端な完璧主義が、一部の観客にとって過酷で不快に感じられるためです。フレッチャーはアンドリューに常に極度のプレッシャーをかけ、精神的にも肉体的にも追い詰めていきます。彼の指導法は、励ますというよりも恐怖を用いて生徒を支配するようなやり方であり、観客にとって非常に過酷で非人道的に映ります。
特に、フレッチャーがアンドリューに感情的な虐待を加えるシーンや、他の生徒に対しても冷酷な態度で接する場面は、非常に辛辣で不快感を覚える人も多いでしょう。フレッチャーは生徒を完璧な演奏者に育て上げようとする一方で、その過程で彼らの人間性や感情を無視し、完全に支配下に置こうとします。こうした姿勢が「ひどい」と評される一因となっています。
また、物語自体が投げかけるメッセージについても議論の的となっており、成功や完璧を追求することの代償や、極端な指導が正当化されるべきかどうかという倫理的な問題を提起しています。たとえフレッチャーの方法がアンドリューを偉大なドラマーに近づけたとしても、その代償はあまりにも大きすぎると感じる人も少なくありません。こうした観点からも、『セッション』は「ひどい」と評されることがあるのです。
映画『セッション』には最低と思われるようなシーンがある?
『セッション』には、観客が「最低」だと感じるようなシーンがいくつか登場します。中でも、フレッチャーがアンドリューや他の生徒に対して行う精神的虐待や、屈辱的な言葉を浴びせるシーンは、多くの人にとって不快感を引き起こすでしょう。フレッチャーは完璧な演奏を求めるあまり、生徒たちの感情や人格を無視し、恐怖心を利用して彼らを支配しようとします。彼の指導は、励ましや教育の範疇を超えて、精神的攻撃に近いものがあります。観客の中には、こうしたシーンを「最低だ」と感じる人がいても不思議ではありません。
特にフレッチャーがアンドリューに椅子を投げつけるシーンや、テンポが合わないと感じたアンドリューに何度も叩かせ続ける場面などは、フレッチャーの過酷さが際立っています。また、他の生徒たちに対しても彼は無慈悲な態度で接し、少しでもミスをすれば激しい叱責を浴びせます。このような極端な教育方針は、見ていて非常に不快で、「最低」だと感じられることがあります。
さらに、アンドリュー自身がプレッシャーの中で自分を見失い、大切な人間関係を犠牲にしながら音楽に執着していく姿も、見ていて痛ましい光景です。彼が恋人や家族との絆を損ないながらも成功を追い求める様子は、「最低」と感じる要素の一つかもしれません。『セッション』は、極端な完璧主義がもたらす代償を描いた作品だと言えるでしょう。
映画『セッション』は、なぜ繰り返しテンポを強調する?
『セッション』では、テンポが繰り返し強調されますが、これは物語全体のテーマや登場人物の心理状態を反映した重要な要素となっています。フレッチャーは常にテンポに厳しく、完璧なリズムを求めてアンドリューを指導します。テンポは音楽において最も基本的でありながら、プロの演奏者にとっても難易度の高い要素の一つです。フレッチャーはわずかなズレも許さない完璧主義者であり、アンドリューに「速すぎるか、遅すぎるか」を徹底的に叩き込もうとするのです。
このテンポの繰り返しは、アンドリューに対するフレッチャーのプレッシャーと、それに応えようとするアンドリューの葛藤を象徴しています。アンドリューはテンポを合わせることに必死になり、フレッチャーの期待に応えられないことで自分の価値を見失いそうになります。彼にとってテンポのズレは、単なる演奏のミスではなく、自分の才能や努力が不足していることの証明のように感じられるのです。
また、映画全体を通してテンポの練習が繰り返し描かれることで、観客もアンドリューの精神的プレッシャーや限界を追体験することになります。ラストシーンでは、アンドリューがフレッチャーの求める完璧なテンポを超えて、自分自身の音楽性を発揮する瞬間が描かれます。テンポの重要性が最後まで一貫して強調されていることが分かるのです。
『セッション』におけるテンポの繰り返しは、単なる音楽の技術的要素ではなく、登場人物の感情や物語のテーマを象徴する重要なモチーフとなっています。それは、完璧を求める過酷な指導と、それに応えようとする若者の葛藤を表現する上で欠かせない要素なのです。
映画『セッション』に気まずいシーンがある?
『セッション』には、いくつか気まずさを感じさせるシーンが登場します。特にアンドリューが音楽に没頭するあまり、恋人や家族との関係を犠牲にしていく過程で、登場人物同士のコミュニケーションがぎこちなくなり、観客にも不快感や気まずさを感じさせる場面があります。
例えば、アンドリューが音楽キャリアに強い執着を見せ始めた時、彼は恋人のニコールに対して音楽以外のことに気を取られたくないと告げ、一方的に別れを切り出します。このシーンでは、アンドリューが冷たく自分の感情を押し殺し、彼女の気持ちを無視する様子が、観客に気まずさを感じさせます。ニコールはアンドリューの行動に戸惑い、ショックを受けますが、彼の決意が揺るがないことを理解し、受け入れるしかありません。このシーンは二人の間に感情的な溝が生まれる瞬間を象徴しており、不快な雰囲気を醸し出しています。
また、アンドリューが家族と食事を共にするシーンでも、気まずい空気が漂います。親戚たちがスポーツの成功を称賛する一方で、アンドリューの音楽への努力が軽視されていることに彼は不満を抱きます。この場面では、アンドリューが音楽への情熱を理解されていないと感じ、家族とのコミュニケーションがうまくいかない様子が描かれます。彼が苛立ちを露わにし、家族との関係が緊張感に包まれることで、観客にとっても居心地の悪い雰囲気が伝わってきます。
『セッション』におけるこれらの気まずいシーンは、アンドリューが音楽への情熱と、恋人や家族との関係のバランスを取ることの難しさを浮き彫りにしています。彼の選択がもたらす人間関係の緊張感や疎外感が、観客に不快感や気まずさを感じさせるのです。
映画『セッション』の最後はどういう意味?
『セッション』の結末は、アンドリューとフレッチャーの対立と和解を象徴する重要なシーンであり、観客に深い印象を残します。ラストでは、アンドリューがフレッチャーの指揮するバンドのコンサートで演奏することになりますが、フレッチャーは彼を陥れるために、予定外の曲を演奏するよう仕向けます。これはアンドリューに対する復讐であり、公衆の面前で恥をかかせようとする卑劣な行為なのです。
しかしアンドリューは屈することなく、自らのドラムソロを披露してフレッチャーに立ち向かいます。彼の演奏は圧倒的なエネルギーと技術に満ちており、フレッチャーの期待をはるかに超えるものでした。この瞬間、フレッチャーは自分の期待に応えただけでなく、それを凌駕する成長を遂げたアンドリューを認め、無言の理解を示します。二人の目が合うこのシーンは、長い対立の末にたどり着いた和解の象徴と言えるでしょう。
ラストシーンの意味するところは、アンドリューが音楽家としての自我を確立し、フレッチャーの過酷な指導を乗り越えて自らの力で成功をつかんだことです。フレッチャーの冷酷な指導は彼を打ちのめすのではなく、かえってアンドリューの内なる才能を引き出すきっかけとなったのです。この結末は、成功のために払うべき代償や、指導者の役割といった深遠なテーマを提起し、観客に考えさせずにはいられません。
映画『セッション』は、どんでん返しが有名な映画?
『セッション』は一般的に「どんでん返し」の映画としては知られていませんが、ラストシーンの緊迫感や意外な展開は観客に強烈なインパクトを与える要素の一つと言えます。映画全体を通してフレッチャーとアンドリューの対立は次第にエスカレートし、過酷な指導に耐えかねたアンドリューが一時は音楽から離れる場面もあります。しかしクライマックスで、再びフレッチャーの前で演奏することになったアンドリューに対し、フレッチャーが裏切りともいえる罠を仕掛けるという展開は、観客を驚かせずにはいません。
この展開は一種のどんでん返しとして受け取られるかもしれません。アンドリューを公衆の面前で辱めようと企んでいたフレッチャーでしたが、逆にアンドリューがその罠をはねのけ、自らの力で圧巻の演奏を見せつけるのです。このシーンではフレッチャーの侮りが明らかになり、彼の計画は予想外の形で裏目に出ます。まさに物語のクライマックスであり、「どんでん返し」のように感じる観客もいるでしょう。
最終的にアンドリューはフレッチャーの期待を超え、自分の力で成功をつかみ取ります。これまでフレッチャーの支配下にあるかのように進行してきた物語が、ラストでアンドリューによって逆転されるのです。こうした劇的な展開が、観客に大きな満足感と感動を与えて作品を締めくくっているのです。
映画『セッション』の、最後のセリフの意味とは?
『セッション』のラストシーンで特定の「最後のセリフ」が印象的なわけではありませんが、その代わりに無言のやり取りが観客の心に強く訴えかけます。アンドリューが圧巻のドラムソロを披露し、それに感銘を受けたフレッチャーが微笑むこのシーンが、映画のクライマックスと言えるでしょう。ここでは言葉ではなく、音楽を通じた二人の無言の交流が物語のすべてを物語っているのです。
ラストシーンでは、アンドリューがフレッチャーの冷酷な指導を受け入れ、それを乗り越えた末に、ついに彼の期待に応えただけでなく、それを凌駕する成果を示します。フレッチャーが指導中に繰り返し用いていた言葉やフレーズはここでは使われず、代わりに二人の目が合うことで、互いを認め合う瞬間が生まれるのです。この無言のシーンは、アンドリューがフレッチャーに自らの価値を証明し、フレッチャーがその成果を認めたことを象徴しています。
この映画では、言葉よりも音楽そのものが感情を伝える手段として重視されており、ラストシーンはその集大成とも言えます。アンドリューの成長とフレッチャーとの複雑な関係性が、音楽を通じて雄弁に語られるのです。まさに無言の力強さが際立つ結末だと言えるでしょう。
映画『セッション』は、撮影の裏話が面白い?
『セッション』の撮影に関する裏話は、多くの映画ファンにとって興味深いものです。中でも主演のマイルズ・テラーが実際にドラムの演奏を担当していたことは、大きな注目を集めました。もともとドラムの経験があったテラーですが、映画のために更に厳しいトレーニングを積み、物語中で描かれる極限のパフォーマンスを可能にしたのです。
撮影中、テラーは文字通り血のにじむような努力でドラムを叩き続け、手にマメができるほどの過酷さに耐え抜きました。彼が流す血や汗は単なる演技ではなく、撮影中に実際に体験したものだったのです。こうしたリアリティが映画の説得力を高める上で重要な役割を果たしており、テラーの献身ぶりが見事に作品に反映されています。
また、監督のデイミアン・チャゼルは限られた予算と時間の中で撮影を行い、短期間で映画を仕上げるために様々な工夫を凝らしました。チャゼルはもともとこの作品を短編映画として制作し、それを基に長編版を発展させたのです。短編版の成功が資金調達につながり、『セッション』を完成させることができました。
さらに、J.K.シモンズ演じるフレッチャーのキャラクターは、その冷酷さと激しさで物議を醸しましたが、撮影現場でのシモンズ自身は非常にプロフェッショナルで、共演者たちとも親密な関係を築いていたというエピソードが知られています。俳優とキャラクターのギャップもまた、興味深い撮影裏話の一つと言えるでしょう。
映画『セッション』はどこで見れる?フルで無料視聴する方法は?
映画『セッション』を見逃した人やもう一度見たい人のために、以下の記事では映画『セッション』のフルを無料視聴できる動画配信サービスと方法について紹介しています。
ぜひ、以下の記事もご覧いただき、映画『セッション』をフル視聴してみてはいかがでしょうか。
みんなの感想・レビュー
フレッチャーに対する厳しい意見をよく目にしますが、ネイマンとフレッチャーは似た者同士ではないかと思いました。
ネイマンも楽譜を無くしたり事故を起こしたりと他者に迷惑をかけ、そのことを反省もしていない自己中心的と思える態度が目立ちます。かつての恋人に対してもそうです。自分の都合だけで別れたにも関わらず、相手に新しい恋人がいると分かると冷めたような態度に変わっています。
フレッチャーもネイマンも音楽以外のことに対して無関心な人間だったのでしょう。そして二人は音楽という共通の価値観を通じて深く通じ合っていたのだと思います。
厳しいことを言われて嫌になってしまうんじゃなくて、何くそ!と自分を奮い立たせて上を目指そうとするアンドリューがめちゃくちゃ推せました。
フレッチャーのやり方に賛否両論あるのは当然だし、フレッチャー自身も嫌なら辞めればいいと言うスタンスなのでそこまで暴力的な感じはしませんでした。文句を言う人は見なければよいだけの話です。
最大の見所は、最後の怖すぎるセッション。フレッチャーに「密告はお前だ」なんて言われたらもう死んだも同然ですよね。しかし、負けなかったアンドリュー。本当にかっこよくて感動的な作品でした。
エンディングに向かって、まるで坂道を転がるようにして加速していく緊張感は、異様だが惹きつけられるものがあった。そんじょそこらのサスペンス映画より手に汗握って観ていたと思う。本当に最後の最後、ラスト一秒まで目が離せない作品だった。
個人的な好き嫌いは別として、“なんだか凄いものを観た”という気持ちになれるのでおすすめ。情熱と狂気の狭間、本気で高みを目指した人間だけが辿り着く境地を垣間見たような気分になった。
鬼教師の学生に対する暴言や圧力、内容の激しさに賛否両論がある作品ではないだろうか。ドラマーを目指す学生のマイルズと、彼を指導するフレッチャーの緊迫したやり取りが見どころだ。個人的にはその荒々しさとピリピリとした緊張感のある演技に目が離せなかった。この作品で鬼講師役を演じたJ・K・シモンズがアカデミー賞助演男優賞を受賞したのも納得のパフォーマンスを見せていた。臨場感あふれる映像と展開に釘付けになった。
基本的に、フレッチャーとアンドリュー2人の場面が多いため、ストーリーに集中して見入ることができた。
鬼教師のフレッチャーのスパルタぶりが狂気的で、張り詰めた緊張感があった。
罵倒され、追い詰められ、その地獄のような厳しさはトラウマになりそうなほど圧巻。
こういった厳しい環境に身を置いたことがないが、本気で取り組むことの意味が描かれているのではないだろうか。
最後12分のコンサートシーンはとてもかっこよくて痺れた。
ネイマンはフレッチャーから指導を受ける際、相手の目を見るよう教育される。ネイマンは相手の目を見ない人物だったのだ。相手の目を見ることで自分の感情をむき出しにして伝えるということを体得したネイマンであったが、これと同時に彼が得たものがもうひとつある。「相手の目を見る」という行為は、同時に「相手から見られる」ということでもある。そう、彼は同時に「他人の目」という新たな概念を意識上に表面化させることとなるのだ。実際、これ以降、ネイマンはフレッチャーに気に入られることだけを求めるようになっていく。
終盤、ネイマンは幼いころの自分がドラムを叩く姿をホームビデオで見て涙を流す。ネイマンは、もはや自分の中に純粋な初期衝動がないことに気づいてしまったのだ。他者からどう見られるかを意識しすぎたあまり、音楽に向き合う姿勢を欠いていたということに気付かされる訳だ。
ネイマンはフレッチャーと揉め、音楽学校を退学となりドラマーの道を諦めるが、ドラムを壊したり捨てたりせず自宅のクローゼットに仕舞ってあることからも、未だどこかで夢を諦めきれていないことが伺える。一度、夢も愛する人をも捨てたことで、失うものがなくなったネイマンは音楽そのものに向き合うこととなる。
物語ラストのドラムの熱演は圧巻である。単純な物語のカタルシスがここにあるのはもちろんのこと、演出も冴えている。ネイマンは誰とも目を合わせず、目の前のドラムをひたすら叩くのだ。彼はようやく、他者の視点という呪縛から脱却したのだ。そしてこれがフレッチャーと分かり合えた初めての瞬間でもある。他者と真に交流するということは、心でお互いに語り合うことなのだ。
音楽を扱った映画でありながら、本作はアクション映画でもある。本心をお互いにぶつけあうという意味では、ある意味殴り合いなのだ。
時にそういった本気の殴り合いは、第三者から見れば滑稽である。本気で取り組むということは独善的なことなのかもしれない。本作ではラストの演奏シーンで引きのロングショットが効果的に多用される。あの世界の高次に達しているのはネイマンとフレッチャーだけで、観客もほかのバンドメンバーも置いてけぼりなのだ。
しかし格闘技と唯一異なるのは、勝敗がすべてではないということである。自分が真に納得できるものを実現できればそれで良いのだ。それを他者がどう言おうと関係ない。自分の人生は他でもない、自分のものなのだから。