映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』の概要:ロマと非ロマが今も昔も住むサクロモンテ地区はスペイン、アンダルシア地方の丘の上にある。生まれた時から音楽があり、踊りなしでは考えられない人生。1963年の水害を生き抜いた彼らのインタビューを通して洞窟フラメンコのルーツを探る。
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』の作品情報
上映時間:94分
ジャンル:ドキュメンタリー
監督:チュス・グティエレス
キャスト:クーロ・アルバイシン、アングスティアス・ルイス・ナバロ、ライムンド・エレディア・エレディア、サルバドーラ・マジャ・フェルナンデス etc
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』の登場人物(キャスト)
- クーロ・アルバイシン
- 12世紀にサクロモンテの洞窟で生まれた。両親は貧しい家の生まれで、母やおばは歌手であった。父親は水売りをしていた。サクロモンテ愛が強く、洞窟フラメンコを伝承されるために歌曲集を出すなど、積極的に活動している。
- アングスティアス・ルイス・ナバロ
- 女性フラメンコダンサー。母方は優秀なアーティスト一家で皆歌い手だったが、彼女は踊る方を選んだ。兄のミゲルもまたトップフラメンコダンサーであった。
- ライムンド・エレディア・エレディア
- 元男性フラメンコダンサーで1938年生まれ。父方が代々かご職人なため、自分も同じ職業につく運命だった。しかし、自ら運命を切り開き、スウェーデンに渡る。以降オペラ座のダンサーとなり活躍する。
- ポローナ
- 本名は母親と同じロラという。8歳の時から踊り始める。毎朝水を汲む道具を持っており、それがワインを飲む際のポロンのようだという理由から、あだ名がポローナとなった。
- サルバドーラ・マジャ・フェルナンデス
- 元女性フラメンコダンサー。自身の息子もフラメンコダンサーとして活躍している。子育てが忙しくダンサー生活に終止符を打ったが、息子から挫折したと思われている。
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』のあらすじ【起】
クーロ・アルバイシンは12世紀にサクロモンテの洞窟で生まれた。家族が歌手であったこともありサクロモンテ地区は今もずっと心に残っている。当時のサクロモンテ地区の生活は、朝の7時から8時に町が目覚め始め、喧騒と共に鍛冶場に火が入る。やがて女同士の口喧嘩が始まるが、誰かが病気になるとすぐに駆けつけるような生活であった。それはロマでも非ロマでも差別なく、みな団結していたという。
クーロがクキという老女に「踊ること以外に何をしていたか」と質問すると「踊っていた」と返答がある。実際はアルハンブラでカーネーションを売っていた。彼女は17歳で結婚し、相手はすぐにいなくなってしまったという。その後20回結婚と離婚を繰り返したと言って皆の笑いを誘い、そのままの流れで「エル・ペタコ」の踊りを披露する。
グラナダ出身の詩人であるガルシア・ロルカの曲に乗って登場したのは、アングスティアス・ルイス・ナバロという女性ダンサーである。1948年生まれで、兄のミゲルはハンサムで踊りの天才だった。兄は14年間アメリカ生活をしていたが、彼女はずっと洞窟生活を続けてきた。そして、「生まれた時から音楽が近くにある」と断言する。サクロモンテではまず、年長者を敬うことを学び、戦後の食糧難でも飢えることのない生活を送っていたと言う。
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』のあらすじ【承】
ライムンド・エレディア・エレディアは1938年サクロモンテに生まれた。踊り始めたのは6歳か7歳の時である。代々かご職人で父親とかごを売って生計を得ていた。踊りが好きなライムンドに対し父親は、踊りなんか止めてかご職人になれ、と殴られ衝突を繰り返していた。10歳の時に、ストックホルムのオペラ座の人間からスカウトを受ける。そして再度、14歳の時にスカウトを受け、父親の反対を押し切ってオペラ座で踊る人生を選んだ。今現在はめまいと震えで踊ることはできないが、自分のダンサーとしての人生に満足していた。
ポローナは幼少期、家に水道が通っていなかったため、毎朝水を汲みに行く必要があった。水汲みの道具がワインに使われるポロンのようだという理由でポローナというあだ名になったという。彼女は8歳の時から踊り始めた。
クーロはラ・ぺジャの洞窟を訪ねる。ぺジャ一族は1800年代の初頭から踊っていた名手であり、その孫達に会いに来たのだった。マルハとトリニの姉妹もすでに80を超えていた。「ペタコ」という踊りは祖母の踊りだったという。
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』のあらすじ【転】
そもそもサクロモンテ初のサンブラとはどのような経緯を経て作られたのか。サンブラとはアラビア語で笛と騒音を意味する。元々はその地を来訪する要人にフラメンコを見せるために作られたもので、その要因としてロマの人材が必要であった。要人がショーを見るとだんだんと人が集まるようになる。そして、需要があるとのことでサンブラのショーが生まれた。しかし、踊りには意味のある振り付けが必要で、それが初めてフラメンコに振り付けができた瞬間であった。サクロモンテのサンブラはロマの結婚式での踊りが基となっている。
サルバドーラ・マジャ・フェルナンデスは67歳の元女性ダンサーであある。彼女は子供が生まれてからは踊り子を引退していた。息子からは引退したことに対して非難される、実際、踊ることは今でも好きだが、子育てがあったので踊ることが難しくなってしまったと吐露する。
サンブラが有名になり、映画俳優や石油会社の人間など、著名人やお金持ちが多く押し寄せるようになった。ポローナは当時を振り返って「評判が世界を駆け巡った」と表現する。
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』の結末・ラスト(ネタバレ)
クーロは幼少期、サンブラでお互いの踊りを見て、見様見真似で練習を重ねていた。毎晩ショーをするサンブラの戸口に立ち、ダンサーの踊りを見て学んだ。誰も教えてくれなかったからこそ皆それぞれに独学で学ぶのだ。
黄金期を迎えていたサクロモンテのサンブラであったが、1963年、悲劇に見舞われる。まずは不世出のダンサーであるカルメン・アマジャが亡くなる。その後に水害に遭い、町が大打撃を受けてしまう。今と違って建物は泥と葉を混ぜたもので作られていたので、丘の上の方は崩れ、死者も出てしまった。当時の政府は住人を全員退去されることにした。クーロはその時の様子をホロコーストのようだったと振り返る。凍えるような寒さで、環境、生活、それに友人とも切り離され遠いスラム街に送られた、と涙声で語る。それによって洞窟での暮らしとフラメンコの伝承が失われてしまった。皆がみな遠い別々のところで暮らし、生きていくために違う職に就くようになると、サクロモンテのサンブラもだんだんと下火になって行ってしまった。
活気を再び取り戻したのは1970年代だが、必要以上に近代化もしてしまった。学生が来るようになり、洞窟もバル化としてしまった。また、洞窟に新たに外国人が別荘として利用するようになり、洞窟フラメンコの伝承が益々難しくなってしまう。
クーロは「歌詞は人生そのもの」だと言い切る。仕事、悲しみ、愛から生み出された。その後、70年代から80年代にかけて、洞窟フラメンコが死んでいると感じた彼は歌曲集を書き始め、新世代の教育も始めている。洞窟を出て行ってしまったダンサーは沢山いるが、洞窟フラメンコの伝承を守るべく戻ってきたダンサーもおり、皆誇りを持って暮らしている。
映画『サクロモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』の感想・評価・レビュー
哀愁的な歌とギターの音色に合わせて情熱的に踊るフラメンコ。何層にも広がったドレスを翻して踊るものかと思っていたが、違った。サクロモンテのフラメンコはもっとシンプルだ。そこに人が集まればできてしまうものなのだ。それは生まれた時から流れている血としか言いようがない。劇中クーロ・アルバイシンが「生の芸術」と表現しているが、フラメンコはただの芸術作品ではない。観る側は彼らの生き様をデフォルメなく見せられているからこそ圧倒されるのだ。(MIHOシネマ編集部)
ドレスを着た女性が情熱的にヒールの音を鳴らしながら踊るのがフラメンコだと思っていた私は、この作品でそのイメージを大きく覆されました。ドレスなんて必要ないし、何か特別な場所じゃなくても、人と情熱さえあれば踊ることが出来るロマの洞窟フラメンコに心を揺さぶられました。
その地に根付いた伝統や、人々の生活があるからこそ受け継がれるフラメンコ。彼らの生活は決して楽なものではありませんが、このフラメンコはずっと伝えていって欲しいと感じました。(女性 30代)
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