映画『マグダラのマリア』の概要:新約聖書の福音書に記される聖女マリアを主人公にイエス復活までの様子を描く。マグダラの大家族の長女として生まれたマリアは、女性の役割に疑問を抱いていた。彼女は結婚直前に、巷で噂の癒し手と呼ばれるイエス・キリストと出会い自ら進んで弟子となる。
映画『マグダラのマリア』の作品情報
上映時間:120分
ジャンル:ヒューマンドラマ、歴史
監督:ガース・デイヴィス
キャスト:ルーニー・マーラ、ホアキン・フェニックス、キウェテル・イジョフォー、タハール・ラヒム etc
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映画『マグダラのマリア』の登場人物(キャスト)
- マグダラのマリア(ルーニー・マーラ)
- 漁村マグダラに住んでいた女性。大家族の長女で非常に聡明。意志が強く慈悲深い。男性に従属される女性が結婚し、子供を儲け働き続けることに異を唱える。密かにイエスへと深い愛情を注いでいた。
- イエス・キリスト(ホアキン・フェニックス)
- ナザレ出身の神の子。弟子たちの前や民衆の前では神の言葉しか話さず、普段は非常に寡黙。常に一人で神との対話を行っているが、マリアによって人としての心を支えられる。数々の奇跡を起こし、救世主と呼ばれローマ帝国によって磔の刑にされる。
- ペトロ(キウェテル・イジョフォー)
- イエスの一番弟子。元漁師で幼い息子を置いて伝道の道へ進む。非常に頑なでイエスの教えの岩になるのだと主張している。女性であるマリアの慈悲深さを認めているが、イエス復活の一番目の証人であることが受け入れられない。
- イスカリオテのユダ(タハール・ラヒム)
- イエスの弟子。ローマ帝国によって妻子を失い、イエスの教えに心底縋る。死にたがりでもあり、神の子=死者の国という間違った認識を頑なに信じている。イエスを裏切りローマ帝国へ密告する役割を負わせられていた。
映画『マグダラのマリア』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『マグダラのマリア』のあらすじ【起】
紀元33年、ユダヤ。ヘロデ・アンティパス王の圧政に反乱が頻発し平和とは程遠い時代。ユダヤ人は予言された救世主が現れ、神の国の到来が告げられることをひたすらに望んでいた。
漁村マグダラにて大家族の長女に生まれ聡明で美しいマリアは、父が勧める村の男性と結婚することになったが、本人はそれを容易に受け入れて良いものか思い悩んでいた。いよいよ結婚相手と顔を合わせたマリアは、意図せず結婚を拒否するような行動を取ってしまい父と共に家族を牽引する兄に強く叱られてしまうのだった。
仕方なく父と兄に従うことにしたマリアだったが、役割を拒否する娘に悪霊がついていると思った父と兄。深夜に彼女を連れ出し半ば無理矢理、悪霊を払う儀式を受けさせられる。巷では洗礼者ヨハネによって洗礼を受けた癒し手なる者が現れたと噂が広まっており期待が寄せられていたが、家族によって悪霊付きと貶められたマリアは女としての役割を果たせないことで心身共に深く傷ついていた。そこで、夫となる青年が癒し手を連れて来てくれる。
癒し手はマリアの悩みを静かに問い、望みが何かを聞く。マリアは神を知ることだと答えた。すると、癒し手イエス・キリストは、ただ神を信じればいい。マリアに悪霊などついていないと笑みを見せ去って行く。マリアはイエスの力強い説教を聞き、更に彼が病を抱える人々を次々と救う姿を目の当たりにする。しかし、群衆はイエスの御業を悪魔の所業だと叫び大騒動へと発展してしまうのだった。
映画『マグダラのマリア』のあらすじ【承】
翌日早朝、イエスと共に行こうと心を決めたマリアは、父の制止を振り切ってイエスと弟子たちの元へ。家族は総出でマリアを取り戻そうとしたが、マリアはイエス自らによって水の洗礼を受け弟子の1人として加わることになるのだった。
弟子の中で紅一点のマリア。一番弟子のペトロは女性が加わることに危機感を抱くも、イスカリオテのユダは女性が伝道師になってもいいではないかと反論。
イエスは弟子に何も語らないが、ペトロを筆頭にする弟子たちは師の教えを広めようと戦略を立てている。新弟子のマリアには発言も許されず、女性であるが故に輪に加わることもできない。彼女はいつも遠目からイエスを見守っていた。
そんな時、師と会話する機会を得たマリアは、女性が伝道に加わることも男性から洗礼を受けることも忌避されることだと語る。すると、イエスは何も答えずその場を去ってしまう。
一行はガリラヤのカナへ。女性ばかりが住む地区へ向かったイエスは、紅一点のマリアを傍らに呼び寄せ何を語れば良いかを聞く。マリアは女性も男性と同様だと進言。当時は男尊女卑の時代であるため、時に女性は男性から意に沿わない従属関係を強いられる。そこでイエスは女性を擁護し、性別に関係なく人は常に平等であることを説いた。すると、マリアのお陰もあり女性の洗礼者が増える。
翌早朝、何の言葉もなくイエスが宿泊地から出発。師は導かれるかのように死者へと手を触れ寄り添って言葉をかけた。すると、驚くべきことに死者が息を吹き返す。その奇跡にペトロ達は神の子なのだと狂喜したが、たった一人マリアだけはイエスの様子がおかしいことに気付く。近くの洞窟へ身を隠してしまったイエスの元へ向かったマリアは、命がすり抜けて行ったと涙を流す師を発見。マリアはこの先に待ち構える暗闇に怯えるイエスを勇気づけ、共に歩むと告げる。すると、イエスはとうとうエルサレムへ向かうと言うのだった。
死者をも生き返らせたという奇跡の噂はたちどころに広まり、町の人々が総出でろうそくを手にイエス一行を見送る。このことで、イエスは救世主と呼ばれることに。そこで、イエスはペトロにマリアと2人で伝道と癒しの旅に出ろと指示するのであった。
映画『マグダラのマリア』のあらすじ【転】
マリアと共にサマリアへ向かったペトロ。イエス一行が目指すのはエルサレムの過越祭。ペトロはその祭りできっと何かが起こると思っているようだが、イエス自身の精神状態にまでは考えが至らない様子。だがマリアは、教えはもちろんのこと最も気にかけているのは師の心の安寧なのであった。
サマリアの村へ入った2人は、そこでローマ帝国が行った凄惨な仕打ちを目にする。帝国によって襲撃され、食糧を奪われた村では村人が今にも飢え死にしそうになっていた。ペトロは別の町へ早々に移動しようと言ったが、マリアは見過ごすことができず息絶えそうな人々に水を与え不安を癒し、死を看取った。
それまで、信者を増やすことばかりを考えていたペトロは、慈悲深いマリアの行動に胸を打たれ彼女を受け入れる。2人はその後、イエス一行と合流しエルサレムへ。
道中、イエスは母親と対面。その夜、マリアはイエスの母親からイエスを愛しているならば、失う覚悟を持てと言われるのだった。
エルサレム、過越祭。一行にはイエスの母親も加わり、町の人々はイエスとその弟子たちの到来に歓喜した。その足で神殿へ向かったイエスは険しい表情で周囲を見渡し、司祭の1人に神殿は全ての国の人の祈りと呼ばれるべき場所なのに、神殿の広場はまるで市場のようだ。信仰とは売り買いするものではない。そう声高に断じ、神殿へと危害を加えた。たちまち衛兵によって取り押さえられたイエスは、更にこの神殿は石一つたりとも残さず崩れ落ちると予言するのだった。
騒動が勃発する中、マリアとペトロ、他の弟子たちがイエスを救出。マリアもユダの導きによって逃れる。ユダは妻子を帝国のせいで失い、神の国へ向かうことを切望していた。
一行はひとまず、用意していた隠れ家へと避難。イエスは別室で休むことに。しかし、マリアが師の元へ向かうとユダが先にイエスへと祈りを捧げていた。ユダは神の国は死者の国で救われる場所だと頑なに信じている様子。マリアが否定しようとしても聞こうとはしなかった。イエスは酷く疲れた様子だったが、何も語らず涙を零した。
ユダが去った後、イエスの足を洗っていたマリアに師が言葉をかける。事はもう始まった。今後起こることを止めてはいけないし、止めさせてはいけないと。マリアは常に彼の心に寄り添っていると返す。すると、イエスはマリアこそが自分の証人になると告げた。
映画『マグダラのマリア』の結末・ラスト(ネタバレ)
夕暮れ時、全員で食事を摂る。これが最後の晩餐になるなど、弟子たちは知る由もない。
辺りが暗くなった頃、一行は近くの丘へ移動。イエスは深い悲しみを抱き神の元へ向かうと言う。遅かれ早かれ、帝国の兵がイエスを捕まえに来るだろう。弟子たちは一心に祈りを捧げる師に習い祈った。
そうして、翌早朝。ユダの手引きによって兵がイエスの捕縛にやって来る。マリアも抵抗したが、殴られて意識を失ってしまった。
気が付くとユダが傍にいる。彼はイエスに死が迫れば、奇跡を起こさざるを得ないと得意げに笑う。イエスが処刑されると聞いたマリアは、即座に裁判場へと走った。
ごった返す人の中、傷だらけで血に塗れたイエスが自ら十字架を背負おうとしている。茨の冠を被せられ、両腕を柱に結わえられふらつきながらも歩んでいた。衝撃を受けたマリアは、踵を返し道の端に蹲る。イエスが抱える痛みや苦しみを共に感じているようだった。
そうして、母親が見守る中、ゴルゴダの丘に磔にされたイエス。
その頃、マリアは倒れ込んだまま動けずにいた。ふと空を見上げ思いを馳せる。イエスと共にあることを。マリアはゴルゴダの丘へ向かい、一心にイエスを見つめ涙を流した。師はマリアと見つめ合いそして、静かに目を閉じる。息絶えたイエスが磔から降ろされる。母親が彼を胸に抱きしめていた。
その後、マリアはユダと会ったが、彼は涙ながらに家族の元へ向かうと去った。イエスの亡骸は清められ丁重に葬られる。墓の入り口は隙間なく石で埋められたが、マリアはその場から離れられなかった。
イエスの埋葬後、首を吊っているユダが発見される。それからしばらく後、マリアは師の呼びかけによって目を覚ました。陽が昇った丘の上に彼の姿があった。
イエスが復活したことをペトロ達に知らせたマリア。希望を失い憔悴していた弟子たちに彼女は一心に神の国とは自らの心の中にあるのだと説いた。心が変われば人も変わる。その言葉にペトロが反論。師が一番にマリアを選んだことを許せないと言う。マリアはそれでも言葉を発し続けると告げその場を去った。イエスの元へ戻ったマリアは、彼から言葉を受け取りその後も女性を中心に伝道を続けるのだった。
聖書によるとマグダラのマリアはイエス復活の一番目の証人であった。591年、グレゴリウス1世がマリアは娼婦だったと主張し、その誤解が今日も残っている。そのため、使徒とは認められずにいたが、2016年になってマグダラのマリアはイエス復活の証人として使徒と同等の地位を認められた。
映画『マグダラのマリア』の感想・評価・レビュー
新約聖書の副音書に記されているマグダラのマリアを主人公に描いた伝記映画。男尊女卑が当たり前で誰もが不安を抱える騒乱の時代、女性の役割というものに異議を唱えるマリアは、当時としてはかなり個性と意思が強い女性だったのだろうと思う。マグダラのマリアには娼婦だったという話の他、イエス・キリストの愛人であったなど様々な説があるが、今作では人としてのイエスの心を支える重要な役割を担っている。聖書のイエス・キリストを題材にした作品は数多く描かれているが、マリアを主人公に描いた作品はなく、今作が初だと言える。評価はあまり高いものではなかったが、イエスにとってマグダラのマリアがどれだけ重要な存在であったかが、よく分かる作品になっていると思う。(MIHOシネマ編集部)
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