映画『ブロークバック・マウンテン』の概要:まだ同性愛者への差別や偏見が根強かった1960年代のアメリカ中西部を舞台に、カウボーイ・カップルの一途な愛を描く。許されぬ愛に苦悩する2人が繊細に表現されており、ゲイ映画というよりはストレートなラブストーリーとして胸を打たれる秀作。世界中で高く評価され、数々の映画賞を受賞した。
映画『ブロークバック・マウンテン』の作品情報
上映時間:134分
ジャンル:ラブストーリー
監督:アン・リー
キャスト:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール、ミシェル・ウィリアムズ、アン・ハサウェイ etc
映画『ブロークバック・マウンテン』の登場人物(キャスト)
- イニス・デル・マー(ヒース・レジャー)
- 牧場育ちの貧しいカウボーイ。両親は事故で死に、兄と姉に育てられた。アルマという婚約者がいるが、ジャックと出会い、深く愛し合うようになる。幼い頃に撲殺された同性愛者を見ており、ジャックとの関係が知られることを極端に恐れている。
- ジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)
- イニスと似たような境遇のカウボーイ。両親は健在だが、父親とうまくいっておらず、仕事を転々としている。ロデオができる。イニスと小さな牧場を経営して、2人きりで暮らしたいと願っている。
- アルマ・ビアーズ(ミシェル・ウィリアムズ)
- イニスの婚約者で、後に結婚して2人の娘を出産する。夫とジャックの関係に気づいて苦しむ。
- ラリーン・ニューサム(アン・ハサウェイ)
- 父親が農機具会社を経営する裕福なカウガール。ロデオ大会でジャックと知り合い、結婚する。ジャックとの間に息子がひとりいる。父親はジャックを毛嫌いしている。
映画『ブロークバック・マウンテン』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『ブロークバック・マウンテン』のあらすじ【起】
1963年、ワイオミング州シグナル。貧しいカウボーイのイニスとジャックは、仕事を求めてこの地へやってきた。牧場経営者のアギーレは、ブロークバック・マウンテンで羊の放牧をする仕事を2人にくれる。
ブロークバック・マウンテンでは、森林局の指定する野営区でテントを張り、夜になると1人はそこから5キロほど離れた放牧地で羊の監視をするよう指示を受ける。山には羊を狙う獣が多く、去年も甚大な被害が出ていた。
ジャックは去年もこの仕事をしており、夜の監視を引き受けてくれる。イニスは食事作りを担当し、朝は朝食を用意してジャックの帰りを待つ。しばらくしてジャックが疲れ始めたため、イニスが夜の監視へ出るようになる。シャイなイニスはジャックによそよそしかったが、酒を飲んで身の上話などをするうちにだんだん心を開いていく。
ある晩、イニスは酒を飲みすぎ、野営区で一眠りする。最初は外で寝ていたが寒さに耐えきれず、ジャックとテント内で眠り始める。ジャックはずっとこの機会を待っており、背後からイニスを抱きしめる。イニスも同じ気持ちだったようで、2人は激しく愛し合う。
イニスにはアルマという婚約者がおり、ジャックも完全なゲイというわけではなかった。それでも2人は強く惹かれあい、深く愛し合うようになっていく。様子を見にきたアギーレは、2人のただならぬ関係に気づく。
映画『ブロークバック・マウンテン』のあらすじ【承】
アギーレは予定より1ヶ月以上早く、2人の仕事を終わらせる。別れる前の日、2人はやりきれない想いをぶつけ合うように殴り合い、ジャックは出血してしまう。イニスは自分のシャツをなくしていた。
別れ際、ジャックは来年も来ると言うが、アルマとの結婚を控えたイニスは、はっきりした返事をしない。それでもジャックと別れた後、イニスはひとりで泣き崩れる。
アルマと結婚したイニスは、牧場での肉体労働に励んでいた。1年後、ジャックは再びシグナルへやって来るが、アギーレに追い返されてしまう。
イニスとアルマの間には2人の娘が生まれ、アルマの希望で牧場から町中へ引っ越していた。ジャックはロデオ乗りとして各地の大会に出場しており、ラリーンという女性と出会って結婚する。ラリーンの父親は農機具会社を経営しており、ジャックもその仕事を手伝う。父親は娘や孫は溺愛していたが、ジャックのことは蔑んでいた。
そんなある日、イニスのもとにジャックからブロークバック・マウンテンの絵葉書が届く。“会いたい”というジャックに、イニスはすぐ“いいとも”という返事を送る。
4年ぶりに再会した2人は、イニスの自宅下で堪えきれずにキスをする。2階の窓からそれを見てしまったアルマは、あまりの衝撃に言葉を失う。イニスはアルマにジャックを紹介し、今晩は飲み明かすと言って家を出て行く。翌日からは釣りに行くという口実でキャンプに出かけ、2人きりの時間を満喫する。残されたアルマはひとりで泣いていた。
映画『ブロークバック・マウンテン』のあらすじ【転】
結婚生活に疲れていたジャックは、イニスと小さな牧場を持ち、2人で暮らしたいと語る。しかしイニスはアルマや子供を捨てる気にはなれなかった。イニスは9歳の時に、故郷で牧場を経営していた同性愛カップルのひとりが、ひどい殺され方をしたのを見ていた。それもあって、たまに会うぐらいの関係でいるべきだと、ジャックを諭す。
その後も2人は、釣りを口実にして時々会っていた。アルマとイニスは結局うまくいかなくなり、1975年に離婚する。離婚を知ったジャックは、すぐイニスのもとへ行くが、ちょうどイニスと娘の面会日と重なってしまい、一緒に過ごせなかった。ジャックはやりきれず、メキシコ国境付近で男娼を買う。
その後アルマは職場仲間と再婚し、新しい家庭を築く。アルマはイニスに再婚を勧めるが、イニスにその気はなかった。アルマは自分がジャックとの関係に気づいていたことを打ち明け、“うす汚い人”とイニスを罵る。イニスは思わずアルマを殴ってしまう。
ジャックとイニスの関係は続いていたが、短い時間しか一緒にいられないことに、ジャックは苛立っていた。
イニスは酒場でキャシーという女性に誘惑され、なんとなく付き合い始める。ジャックはランドールという妻帯者の男性から、釣りに誘われる。ジャックとランドールは、その後何度か釣りに行く関係になる。
映画『ブロークバック・マウンテン』の結末・ラスト(ネタバレ)
イニスとジャックが出会ってから、20年近くが経とうとしていた。2人の関係は今も続いていたが、子供の養育費を払っているイニスは、思うように時間が作れないでいた。ジャックはそれが不満だった。
ジャックがメキシコへ行ったことを知ったイニスは、激しい嫉妬を感じてジャックを責める。ジャックはイニスのせいだと反論し、なかなか会えない切なさをぶちまける。いっそ別れられたら楽になれるのにと、イニスは泣き出してしまう。イニスもジャックを狂おしいほど愛しており、本当は片時も離れたくなかった。
それからしばらくして、ジャックへ送った葉書が、受取人の死亡を理由に送り返されてくる。イニスはすぐにラリーンへ電話をかけ、事情を聞く。ジャックは道端でトラックのパンクを直していて、タイヤの破裂により死亡していた。しかしイニスは、ジャックがあの同性愛者のように殴り殺されている姿を想像する。
ジャックは“遺灰はブロークバック・マウンテンにまいてほしい”という遺言を残していた。イニスは遺灰を譲ってもらうため、ジャックの実家を訪ねる。実家は貧しい牧場で、ジャックはイニスと一緒にこの牧場を立て直すと父親に話していた。
イニスはジャックの部屋を見せてもらう。クローゼットの奥には、あの日ブロークバック・マウンテンでなくしたと思っていたイニスのシャツと、血のついたジャックのシャツが、重ね合わせて吊られていた。イニスは思わずそのシャツを抱きしめ、ジャック恋しさに涙を流す。母親はそのシャツをイニスに譲ってくれる。父親は、ジャックは家族の墓に埋葬すると語る。
イニスはそれからもひとりで暮らす。イニスの部屋のクローゼットには、ブロークバック・マウンテンの絵葉書と重なり合った2人のシャツが飾られていた。イニスはシャツを見つめながら“永遠に一緒だ”とジャックに語りかける。
映画『ブロークバック・マウンテン』の感想・評価・レビュー
同性愛をテーマにした本作であるが、同性愛が社会に認められていれば、この作品のように周囲を傷つけるということはなかったように感じる。魅かれ合う気持ちを隠さなければいけなかったこと、家族に秘密にして会わざるを得なかったこと。とても辛かったであろう。ラストのイニスの涙を見ると同性愛を取り巻く社会の状況に関して考えさせられる。同性愛は決して個人の趣味ではない。すべての人が愛する人と胸を張って付き合っていられるような社会になって欲しい。(男性 20代)
時代背景も相まって、前半の情景美に目を奪われます。共に働くことになった二人の男が次第に惹かれあっていく本作。アン・リー監督は同性愛自体を描くというわけではなく、それによる周囲の偏見や本人たちの葛藤を描きたかったのだろうと思います。
シャイで現実的なイニスの感情の変化、気持ちに素直に生きるジャックの寂しさがひしひしと伝わってきて辛くなります。
キャスティングがこの二人でなければ成立しなかったのではないかと思うほどに素晴らしかったです。硬派な役どころのヒース・レジャーもベビーフェイスなジェイク・ギレンホールもぴったりでした。
今は亡きヒースの代表作のひとつでもあります。(女性 20代)
心地のいいギターのBGMから始まって、どんなストーリーが始まるのかと息を飲んで見守っていたけど、こんなに切ない物語あるのかと、観た後は涙が止まらなかった。
ヒース・レジャーの演技は見れば見るほど引き込まれるし、このジェイク・ギレンホールの演技を観て、「スパイダーマン」のミステリオ役と同一人物なんて思いもしなかった。ゲイを演じられる俳優ってやっぱり良い役者しかいないと思う。最高に一途で切ない愛の話だった。(女性 20代)
この作品について同性愛云々で語られることは多いが、実は男女のカップルの話としても十分成立する。事情があって結婚できず、不倫という形になってしまった。そんなストーリーはどこかにあるだろう。異性愛でも周囲に認められないカップルはいくらでもいるはず。恋愛の形は異性愛でも同性愛でもそんなに変わらない。
結局「みんな違ってみんないい」では差別は解消されない。それは違いを強調して、時に溝を深めてしまうから。「みんなそんなに違わない」の方が、遙かにみんなが幸せになれるのだ。(男性 40代)
みんなの感想・レビュー
ヒースレジャーもレスリーチャンも名作と言われる同性愛作品を遺して、旅立ってしまった事実が更に名作中の名作として私達の魂を打つのだろうと思います。最近の同性愛名画のア―ミ-ハマ―も生存はしていても役者としての命は、断たれたも同然です。だからこそこれらの作品が恋しくなるような気がします。その時を、燃焼した名優達からの命がけのメッセージを受けとることを映像から大衆の私達が迫られている…終始、心身が痺れていました。観終えた今も、余韻と言う単純な言葉は、似つかわしくありません。名優達に敬愛を抱きます。
本作は、ゲイを描いた作品であるが、観客の半数近くに好感度を持って受け入れられています。その評価に期待して観たのですが、とんでもなかった!というのが筆者の第1印象です。友情から恋愛に発展して?のように見える予告編も観ましたが、誤っています。とても確信的に作られた作品です。
まず、カウボーイの2人が出会うシーン。ジャックが、車のミラーを使って遠目で男を見つめています。まるで、男を探しているかの様です。次にブロークバック・マウンテンでの仕事を終えて、2人が分かれたあと、ジャックは嗚咽をもらしながら苦しそうにしています。
泣いてるようにも吐いているようにも見えるのですが、何故そんな行動を取るのか?会えなくて辛い気持ちが堪えきれなくなったからという見方もありますが、筆者には掴みかねます。また時代背景と宗教的な観点から、2人が羊の世話をし、その羊が大嵐や雪で他の羊と混ざってしまうことやコヨーテに羊が殺されたというシーンは2人の運命を表しているようにも思えます。
後半では、再会した2人が”釣りに行こう”と誘い合っています。この釣りという言葉にもゲイの雰囲気がします。個人的には、2人の行動に共感することができませんでした。
アメリカ社会と同性婚についての意識の変化をみてゆきたいと思う。1969年に”ソドミー法”という同性愛禁止条例が施行されていた時代が本作の物語と重なります。その法律に反対し、ストーン・ウォールの反乱という3日間にわたる警察とのにらみ合いもありました。カトリックの教えが根強く、アメリカ各地で差別意識が高まる時代だったのです。
もし、周囲に同性愛者であることが知られてしまったら実際に命の危険があったでしょう。1973年には、ハーヴェイ・ミルクがゲイをカミングアウトした初のサンフランシスコ市長に当選。一気にゲイらしく生きようという機運が高まってきました。そして、2015年6月29日に連邦最高裁で同性婚をアメリカ全州で認めるという法案が可決しました。
同性婚が認められ、法的に彼らの人権が守られるようになるでしょう。しかし、人の心はそう簡単には変わりません。本作のように、”自由に生きたい”と思っても難しいのです。個人的には、不快な気持ち(性的な事を言うなど)を与えないでもらえればいいのですが、テレビ等で観る同性愛者はそんなことおかまいなしでいることが多いですよね。
隠さないでもいいが、そんな態度にどん引きしてしまう人がいることも分かってほしいと思います。アメリカだけでなく、日本でも渋谷区のように同性パートナーシップ条例が認められるようになりました。課題は多いですが、相互理解が進むようになればと思います。
本作「ブロークバック・マウンテン」がアカデミー賞の3部門を受賞した時、アン・リー監督が、「最優秀賞を取れないのは、偏見があるからだ」と怒ったといいます。本作の感想や評価がおおむね好印象を持って受け入れられていると知れば、喜ぶでしょう。1つの愛の形として、異性であっても同性であっても変わらないのです。ただあまりにも周囲を傷つけ、苦しむ愛なんです。
2人の考え方や生き方の違いが、2人を引き裂いたのでしょうか?本編をじっくり観てほしいと思います。主演2人の繊細な演技には引き込まれるところもありますが、筆者は2人の行動に共感することはできませんでした。いくら互いを好きでいても、周囲を傷つける行動をしてもいいのか。それぞれの立場で本作を観れば、同性愛者を取り巻く現実への理解や切なさに胸が締め付けられるでしょう。
それこそが、アン・リー監督が異文化を通して見つめた視点として描きたかったものではないでしょうか。