この記事では、映画『パルプ・フィクション』のあらすじをネタバレありの起承転結で解説し、この映画の疑問や謎をわかりやすく考察・解説しています。
- 映画『パルプ・フィクション』の作品情報
- 映画『パルプ・フィクション』の登場人物(キャスト)
- 映画『パルプ・フィクション』のネタバレ・あらすじ(起承転結)
- 映画『パルプ・フィクション』の考察・解説(ネタバレ)
- 映画『パルプ・フィクション』は何が面白いのか?
- 映画『パルプ・フィクション』で死んだはずのヴィンセントがまた出てきたのはなぜか?
- 映画『パルプ・フィクション』は時系列がバラバラだから面白いのか?
- 映画『パルプ・フィクション』にはサブリミナル映像が挿入されているか?
- 映画『パルプ・フィクション』で引退すると言っていたジュールスのその後は?
- 映画『パルプ・フィクション』でジミーを演じていたのは誰?
- 映画『パルプ・フィクション』がすごいと評価されている理由
- 映画『パルプ・フィクション』でミアがヴィンセントにジョークを言ったのはなぜ?
- 映画『パルプ・フィクション』の「ビッグ・カフナ・バーガー」というハンバーガーは実在するの?
- 映画『パルプ・フィクション』はどこで見れる?フルで無料視聴する方法は?
映画『パルプ・フィクション』の作品情報
出典:U-NEXT
製作年 | 1994年 |
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上映時間 | 154分 |
ジャンル | アクション 犯罪 |
監督 | クエンティン・タランティーノ |
キャスト | ジョン・トラヴォルタ サミュエル・L・ジャクソン ユマ・サーマン ハーヴェイ・カイテル |
製作国 | アメリカ |
映画『パルプ・フィクション』の登場人物(キャスト)
- ビンセント・ベガ(ジョン・トタボルタ)
- ギャングのボス・マーセルスの部下。3年間アムステルダムにいた。薬物を常用しており、平気で人を殺す。ダンスがうまい。
- ジュールス・ウィンフィールド(サミュエル・L・ジャクソン)
- ビンセントの相棒の黒人男性。人を殺す前に聖書の一節を暗唱する。ビンセントとは常に言い合いをしている。
- ミア・ウォレス(ユマ・サーマン)
- マーセルスの妻。元売れない女優。コカインを常用している小悪魔系の女性。
- ブッチ・クリッジ(ブルース・ウィリス)
- 落ち目気味のプロボクサー。ファビアンという若い恋人がいる。曽祖父から代々受け継がれてきた金の時計を幸運の時計と信じて大切にしている。
- マーセルス・ウォレス(ヴィング・レイムス)
- ギャングのボス。屈強で非情な黒人男性で部下からも恐れられている。
映画『パルプ・フィクション』のネタバレ・あらすじ(起承転結)
映画『パルプ・フィクション』のあらすじ【起】
とあるレストラン。パンプキンは恋人のハニー・バニーに効率のいい強盗について熱弁していた。結論は今ここでこのレストランを襲うのがベストだということになり、2人は銃を持って叫び始める。
ギャングのビンセントとジュールスは、ボスのトランクを盗んだ若者たちの始末に向かっていた。車内での話題はボスの妻ミアの足マッサージをした男がボスの怒りを買ってアパートの4階から突き落とされたという噂話について。足マッサージでそんな制裁を受けるのはどうかと白熱の議論が展開される。
若者のアジトに到着した2人は怯える若者2名を容赦なく撃ち殺し、トランクを手に入れる。ジュールスは人を殺す前にエギキエル書25章17節を暗唱することにしていた。
「ビンセント・ベガとマーセルス・ウォレスの妻」
ボスのマーセルスが留守にする夜、ビンセントはボスの妻のミアを外へ連れ出すよう頼まれていた。足マッサージの一件もあるのでビンセントは多少緊張しており、ヤクの売人から上物のヘロインを仕入れ、一発キメてからミアを迎えにいく。
ミアが選んだレストランで食事をし、2人はツイスト大会で優勝してトロフィーをもらう。コカインを常用しているミアはすっかりいい気分になっていた。帰宅したミアはビンセントがトイレに行っている間にコカインと間違えてヘロインを吸引し、危篤状態に陥る。ビンセントは慌てて売人の家にミアを連れて行き、大騒ぎしながらミアを蘇生させる。お互いにこのことは秘密にしようと誓って、ミアとビンセントは別れる。
映画『パルプ・フィクション』のあらすじ【承】
「金時計」
プロボクサーのブッチはマーセルスから八百長試合を依頼される。落ち目だったブッチはその話にのり、謝礼を受け取る。ところがいざ試合になるとブッチは急に本気を出し、相手のボクサーを殴り殺してしまう。当然マーセルスは激怒し、逃げたブッチの行方を探す。
ブッチは弟と組んでボクシング賭博で大儲けし、恋人のファビアンに逃亡用の荷造りもさせていた。しかし荷物の中に自分の大切な金の時計が入っておらず、ブッチは激怒する。この時計は曽祖父から祖父へ、そして祖父から父へと受け継がれてきた幸運の時計だった。ベトナム戦争で捕虜となった父は5年も尻の穴にこの時計を隠し、父が収容所で亡くなった後は父の友人が2年間尻の穴に隠して守ってくれ、帰還後ブッチに届けてくれた。ブッチは父の形見を諦めきれず、危険を承知でアパートへ戻る。
幸いアパートには誰もおらず、時計を手にしたブッチは上機嫌でキッチンへ行き、銃を発見する。ほどなくしてトイレから出てきたビンセントをブッチは撃ち殺し、車で逃走する。
信号で止まったブッチは横断歩道を渡るマーセルスと遭遇する。ブッチはマーセルスを車で撥ねて事故を起こし、質屋へ逃げ込む。追ってきたマーセルスとブッチはもみ合いになるが、質屋の店長に銃で脅され拉致されてしまう。
店長とその友人の狙いはマーセルスとブッチの尻の穴だった。マーセルスが別室で犯されている間にブッチは逃げ出そうとするが、考え直してマーセルスの救出へ向かう。ブッチは店長を日本刀で斬り殺し、解放されたマーセルスは八百長試合の一件をチャラにしてくれる。幸運の金時計はブッチの尻の穴と命を守ってくれた。
映画『パルプ・フィクション』のあらすじ【転】
「ボニーの一件」
話はビンセントとジュールスが、ボスのトランクを奪った若者を始末した時点にさかのぼる。部屋にいたのは殺された2名の若者と黒人少年のマーヴィンだけだったが、実はもうひとりトイレに隠れていた。若者はトイレから飛び出して銃を乱射。しかし弾は2人に全く当たらず、若者はあえなく撃ち殺される。2人はマーヴィンを連れて帰路につく。
ジュールスは弾が自分たちに当たらなかったことを神の奇跡だと感じていた。ビンセントはただの偶然だと反論するが、ジュールスはこの出来事に深く感動し、足を洗うと言い出す。いつものように議論が白熱する車内で、ビンセントは後部座席にいたマーヴィンをはずみで撃ち殺してしまう。車内は頭を吹っ飛ばされたマーヴィンの血や脳みそでベトベトになる。ジュールスは仕方なく近隣に住む友人のジミーにガレージを借りることにする。
朝っぱらから自宅ガレージに死体と血まみれの車を持ち込まれ、ジミーは怒っていた。夜勤明けでもうすぐ帰宅する看護師の妻がこれを見たら、自分は離婚されてしまうとジミーは騒ぎ出す。ジュールスはボスに応援を依頼し、掃除屋のウルフが派遣される。ウルフはテキパキと2人に指示を出し、死体ごと車を処理してくれる。血だらけの服を捨ててジミーのTシャツと短パンに着替えた2人は、朝食を食べにレストランへ入る。
映画『パルプ・フィクション』の結末・ラスト(ネタバレ)
そのレストランではパンプキンとハニー・バニーが強盗の相談をしていた。ビンセントとジュールスは朝食を食べながら神の奇跡について議論を続ける。ビンセントがトイレへ立った後、店内ではパンプキンとハニー・バニーが銃を手にして強盗を始める。
パンプキンはレジから現金を強奪し、全ての客に財布を出すよう命令する。ジュールスは黙ってパンプキンの命令に従っていたが、ボスのトランクを渡すことは拒む。それでも引き下がらないパンプキンをジュールスは羽交い締めにして銃口を向ける。ハニー・バニーはパニック状態となり、ジュールスに銃口を向けて騒ぎ出す。
いつものジュールスなら迷わず2人を撃ち殺しているが、今朝の出来事で神の存在を感じていたジュールスはそうしない。トイレから出てきたビンセントにもハニー・バニーを殺さないよう告げ、自分の話をする。パンプキンに自分の有り金を全て渡してやり、あの聖書の一節を暗唱する。ジュールスはおとなしくなったパンプキンとハニー・バニーを逃してやり、ビンセントと笑いながら店を出て行く。
映画『パルプ・フィクション』の考察・解説(ネタバレ)
映画『パルプ・フィクション』は何が面白いのか?
『パルプ・フィクション』の魅力は、独創的なストーリーテリング、個性的なキャラクター、そして巧みなダイアログにあります。この映画は、時系列が非線形的に進行するため、観客は物語の繋がりを興味深く追いかけることになります。一般的な映画のように最初から最後まで一直線に物語が進むわけではないため、予測不能な展開が多く、視聴者を驚かせ、興奮させるのです。
また、映画に登場するキャラクターたちは非常に個性的で、観客の心に強く印象づけられます。殺し屋のヴィンセントとジュールスを中心に、ギャングのボス、その妻ミア、ボクサーのブッチなど、それぞれが独特の背景と性格を持ち、彼らの相互作用が映画の大きな魅力となっています。特に、ヴィンセントとジュールスの会話や行動にはコミカルな要素が含まれ、緊迫感の中にユーモアをもたらしているのです。
さらに、クエンティン・タランティーノ監督特有のスタイリッシュな映像表現と音楽選択が、この映画の面白さを引き立てています。タランティーノは古い映画やポップカルチャーに影響を受けた演出を得意とし、それが作品全体の雰囲気に深みと味わいを与えているのです。特に、印象的なシーンに完璧にマッチする音楽の使い方は、映画の魅力を大いに高めています。
これらの要素が絡み合い、『パルプ・フィクション』は一見しただけでは理解しきれない複雑さと、何度見ても新しい発見がある奥深さを持つ作品となっているのです。
映画『パルプ・フィクション』で死んだはずのヴィンセントがまた出てきたのはなぜか?
『パルプ・フィクション』の中で、ヴィンセントが死亡した後に再登場する理由は、映画の物語が時系列に沿っていないためです。この作品は3つの異なるエピソードで構成されており、それぞれの物語が時間軸を行き来しながら描かれているのです。そのため、ヴィンセントがブッチの家で撃たれて死ぬシーンは物語の途中で起こりますが、その後のエピソードでは彼がまだ生きている状態で登場することになります。
具体的に言うと、ヴィンセントが死ぬシーンは、映画の最後のエピソード「金時計」の中で描かれます。しかし、最初のエピソードや最後のエピソード(ジュールスとヴィンセントがダイナーで立ち向かう場面)では、彼はまだ生きているのです。これは、映画が時間軸を無視した構成になっているからであり、観客は物語を順番に理解していく必要があるのです。
タランティーノは、このように時間を入れ替えた物語展開を巧みに使うことで、観客を驚かせ、より深い理解と考察を促す作品に仕上げています。つまり、ヴィンセントが死んだ後に再び登場すること自体が、映画の複雑な構成を理解するための重要なポイントになっているのです。
映画『パルプ・フィクション』は時系列がバラバラだから面白いのか?
『パルプ・フィクション』が時系列をバラバラにすることで面白さを引き出しているのは、観客に予測不能な展開を提供するためです。一般的な映画では、物語が始まりから終わりまで時間の流れに沿って進むので、観客はある程度の展開を予想できます。しかし、この映画では時間軸が混在しているため、どのシーンがどのタイミングで起こっているのかを観客自身が把握しなければならないのです。
この手法によって、登場人物たちのある場面での行動の意味が、後のシーンで明らかになることが多く、観客はパズルを解くような感覚で物語を追体験します。例えば、ヴィンセントがブッチの家で死ぬシーンの後も、映画の別のエピソードでは彼が生きている姿が登場します。この一見矛盾した展開が、観客を驚かせ、物語により深く引き込むのです。
さらに、この時間のずれによって、映画全体のテーマやキャラクターの成長が際立ちます。特に、ジュールスが殺し屋を辞めると宣言するシーンは、映画の終盤に位置していますが、物語全体の中では前のエピソードに繋がるものです。これによって、彼の変化と成長が強調されるのです。
時系列がバラバラであることで、観客はただ物語を追うだけでなく、登場人物の行動や選択の背景にある意味を深く考えるようになり、それが『パルプ・フィクション』の面白さの一因となっているのです。
映画『パルプ・フィクション』にはサブリミナル映像が挿入されているか?
『パルプ・フィクション』には、明らかに「サブリミナル映像」と呼べるものは挿入されていません。サブリミナル映像とは、観客が意識しないレベルで感じ取るように、極めて短時間だけ映し出される映像のことを指します。この技法は、時として物語の進行や心理的影響を与えるために使われることがありますが、『パルプ・フィクション』ではそのような手法は採用されていないのです。
ただし、クエンティン・タランティーノ監督の作品は、視覚的に非常に印象的であり、観客の注意を引くための映像技術や編集が頻繁に用いられています。例えば、特定のシーンでカメラが独特の動きを見せたり、シーンの間で視点が急に変わったりすることがありますが、それらは物語の流れを強調するための演出であって、サブリミナルのような潜在的なメッセージを含んだものではありません。
また、映画全体に散りばめられたポップカルチャーへのオマージュや、過去の映画や音楽に対するリファレンスも、タランティーノ監督らしい演出として観客の注意を引く要素です。こうした要素は、映像の中で一瞬のうちに現れることもありますが、これもサブリミナルとは異なり、むしろ映画ファンに向けた遊び心ある演出と言えるでしょう。
結論として、『パルプ・フィクション』にサブリミナル映像は使われていませんが、観客の視覚的な興味を引く技法が巧みに取り入れられていることは間違いありません。
映画『パルプ・フィクション』で引退すると言っていたジュールスのその後は?
映画『パルプ・フィクション』のラスト近くで、ジュールスは殺し屋を引退すると宣言します。この決断は、彼が体験した奇跡的な出来事に大きく影響を受けています。物語の途中で、ジュールスとヴィンセントが敵に銃を向けられるシーンがありますが、至近距離から発砲されたにもかかわらず、二人は無傷で生き延びます。この出来事をジュールスは「神の意志」と捉え、暴力的な生活から足を洗う決意を固めるのです。
その後、映画のラストシーンでは、ジュールスがダイナーで強盗に遭遇し、彼の哲学が変化していく様子が描かれます。強盗を止める際、ジュールスは以前のように暴力に訴えるのではなく、冷静に交渉し、彼らを諭すような態度を見せます。彼の心境の変化が明らかになり、殺し屋としての生活を終え、新たな人生を歩み始める決意が強調されているのです。
映画自体ではジュールスのその後の人生については描かれていませんが、彼が殺し屋を引退して新しい道を進むことが示唆されています。タランティーノ監督の映画では、登場人物たちの未来についてはあまり詳しく語られないことが多いため、ジュールスがその後どのような人生を送ったのかは観客の想像に委ねられています。ただ、彼の決断や変化を示すシーンが非常に印象的であり、観客はジュールスが平和な新生活を送ることを期待するでしょう。
映画『パルプ・フィクション』でジミーを演じていたのは誰?
『パルプ・フィクション』でジミーを演じていたのは、他ならぬ監督のクエンティン・タランティーノ自身です。タランティーノ監督は、映画制作だけでなく、俳優としても自身の作品に登場することで知られています。ジミーは物語の中盤、ジュールスとヴィンセントが仲間を車内で誤射してしまい、遺体の処理に困る場面で登場します。ジミーはジュールスの友人であり、妻が帰宅する前に急いで遺体を片付けなければならないという状況に巻き込まれるのです。
ジミーは映画全体の中で重要な役割を担うキャラクターではありませんが、彼が登場するシーンは非常に印象的です。特に、彼が心配しているのは、妻が家で遺体を発見してしまうことへの恐怖であり、ジュールスやヴィンセントとは違って、一般人としての立場から非常にリアルな反応を見せます。このシーンは、深刻な状況にもかかわらず、タランティーノ監督特有のブラックユーモアが満載の場面としても知られています。
タランティーノ監督は、自身が演じるキャラクターにユーモラスな要素を加えることで、シリアスな状況を和らげつつも、独自のスタイルを際立たせています。ジミーのキャラクターはその好例であり、映画全体のトーンに貢献している重要な役割を果たしているのです。
映画『パルプ・フィクション』がすごいと評価されている理由
映画『パルプ・フィクション』が「すごい」と高く評価されているのは、いくつかの要素が複雑に絡み合っているからです。まず、クエンティン・タランティーノ監督による独創的なストーリーテリングが挙げられます。時系列をバラバラにした構成や、複数のエピソードが交錯する手法によって、観客は物語の展開を最後まで予測できず、サスペンスと緊張感を保ちながら映画を楽しむことができます。この斬新なアプローチは、当時の映画界において画期的であり、多くの批評家から称賛されました。
また、映画全体のキャラクター設定とダイアログのセンスも高く評価されています。ヴィンセントやジュールス、ミアなど、登場人物たちは皆個性的で、彼らの会話には独特のユーモアや哲学的な含みが込められています。タランティーノの脚本は、何気ない会話の中に深い意味やキャラクターの個性を巧みに織り込み、観客に強い印象を与えるのです。
音楽の使い方も大きな魅力の一つです。『パルプ・フィクション』では、古典的なロックやポップスが効果的に使われ、シーンを盛り上げています。特に、ミアとヴィンセントがダンスを踊るシーンで流れる曲など、映画のシーンと音楽が完璧にシンクロする瞬間が随所に見られます。この選曲のセンスが、映画のムードをさらに高めているのです。
さらに、タランティーノ監督は過去の映画やジャンル作品へのオマージュを巧みに取り入れており、映画ファンにはそのリファレンスを探す楽しみもあります。これにより、映画が単なるエンターテインメント以上の奥行きを持ち、映画史の中でも重要な作品として位置づけられているのです。
これらの要素が見事に組み合わさり、『パルプ・フィクション』は斬新かつ豊かな映画体験を提供することで、多くの批評家や観客から「すごい」と称賛されているのです。
映画『パルプ・フィクション』でミアがヴィンセントにジョークを言ったのはなぜ?
映画『パルプ・フィクション』でミアがヴィンセントにジョークを言ったのは、二人の関係をより円滑にするための試みだったと言えます。ミア(ユマ・サーマン)はギャングのボス、マーセルス・ウォレスの妻であり、ヴィンセント(ジョン・トラボルタ)はマーセルスの部下です。二人が一緒に過ごすシーンでは、ヴィンセントがボスの妻に対して慎重に振る舞いながらも、どこか居心地の悪さを感じさせる関係性が描かれています。
ミアがジョークを言ったのは、ヴィンセントとの間に漂う緊張感を和らげ、会話をよりリラックスしたものにするためでした。もともと二人のやり取りには若干の堅さがありましたが、ミアは自分なりの方法でその場の雰囲気を軽くしようとしたのです。また、彼女自身が魅力的で自信に満ちた性格の持ち主であるため、ヴィンセントのような相手に対しても、自然体で接することができる余裕を見せています。
ジョークを用いることで、ミアはヴィンセントに「単なるボスの妻」として扱われたくないというメッセージを間接的に伝えているのです。彼女は自分の人間性を前面に出し、ヴィンセントとの間に壁を作らないよう努めています。このシーンは、二人の距離が徐々に縮まっていく過程を表現する重要な場面であり、映画全体の雰囲気を形作る一つの要素にもなっているのです。
映画『パルプ・フィクション』の「ビッグ・カフナ・バーガー」というハンバーガーは実在するの?
『パルプ・フィクション』に登場する「ビッグ・カフナ・バーガー」は、実在するハンバーガーチェーンではなく、映画のために創作された架空のファストフードです。このハワイアンテイストのバーガーは、作中でジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が重要なシーンで食べることでも知られています。
バーガーが登場するシーンでは、ジュールスが敵対する人物に「お前のバーガー、うまそうだな」と言いながら、そのバーガーを頬張る様子が描かれます。これによって、彼の冷酷さとユーモアのセンスが同時に表現されているのです。このように、映画の中で小道具や食べ物が物語にユニークな彩りを添えています。
「ビッグ・カフナ・バーガー」は、タランティーノ監督の他の作品にも登場する架空のブランドです。例えば、『レザボア・ドッグス』や『フォー・ルームス』などでも言及されており、タランティーノ作品の中ではおなじみの架空ブランドとして定着しています。これは、監督が自身の映画の中で遊び心を取り入れ、架空のブランドを通じて映画の世界観をより深く構築する手法の一つと言えるでしょう。
映画ファンにとって、「ビッグ・カフナ・バーガー」はタランティーノ作品の中でのアイコン的な存在であり、彼の映画の世界を彩る重要な要素の一つとして親しまれています。ただし、残念ながら現実世界でこのバーガーを味わうことはできません。
映画『パルプ・フィクション』はどこで見れる?フルで無料視聴する方法は?
映画『パルプ・フィクション』を見逃した人やもう一度見たい人のために、以下の記事では映画『パルプ・フィクション』のフルを無料視聴できる動画配信サービスと方法について紹介しています。
ぜひ、以下の記事もご覧いただき、映画『パルプ・フィクション』をフル視聴してみてはいかがでしょうか。
みんなの感想・レビュー
①クエンティン・タランティーノの真骨頂。
タイトル通り「くだらない」映画である。くだらないストーリーに「くだらない」というタイトルを付けて、真顔でメガホンを撮ったタランティーノの真骨頂が発揮された作品である。しかしタランティーノの上手いところは、笑わせたいところで役者の演技を決してコミカルに描かせないのである。シニカルな表情でバカをやるというところは、途中から観た人は一体どんな展開なのだろうと首をひねるだろう。全然心配しなくてもいいところで心配したり、この流れでそのセリフが出るかというようなセリフが出てくるというマジックは、タランティーノならではのものである。そしてスティーブ・ブシェミみたいな役者をチョイ役として使う事で、画面の中に異様さを描き出すことにかけては天才的な感性を持っている。多分タランティーノの映画に出演する俳優も、その辺を全て熟知しているかのように演技しているのが、尚更観ていてくだらなさを実感するのである。自分の撮った映画には殆ど自ら出演しているというところも、足らない部分を自分で補える役者視点で映画が作れる珍しいタイプの監督である。天才とバカの両面を持ち合わせている希有な人物だろう。エンターテインメントというものを、いい意味でも悪い意味でもよく理解している。
②変なシリアスではなく、まともなナンセンス。
短編のオムニバスで構成していながら、時系列はわざとバラバラにし、最後に全てが繋がり全体の構成が解る仕組みになっている。初めて観る人は一体何がどうなっているか解らないだろうが、最後まで観たらその作り方の妙に納得するだろう。出演者が真面目な顔で演技していると思っていると混乱する。それを避けるためにも途中でトイレなどには行かない方がいい。そして最後に映画が終わって何も残らない感をゆっくりと味わい、そのくだらなさに何も感じない自分の生真面目さを誇りに思うも良し、ゲラゲラ笑い飛ばすのも良いのではないか。何にでも意味があると思って観ていると大間違いなのである。それにしてもFとUとCとKのセリフをここまで多用した映画にはお目に掛かったことがない。
ジョン・トラヴォルタやブルース・ウィリスなどの豪華な俳優が至って真面目な演技をしながら、B級映画のテイストが存分に漂ってくる。しかしその中にマカロニ・ウエスタン的なワイルドさが滲み出ており、ほとばしる血の匂いがする。作り方の真意は定かではないが、シナリオは適当で演技は成り行きに任せ、監督が現場をイメージで仕切る中でのアドリブ中心。さらに編集の間でアイデアが湧いてきたら、ところ構わずフィルムを繋げるというような作りが見えてくる。テーマは決まっていながらその中で演奏者がぶつかり合うフリージャズの演奏を聴いているようなライヴ感だ。計算できるようなイメージではなく、ひらめきという天性の魔術である。