映画『アデル、ブルーは熱い色』のネタバレあらすじ結末 | MIHOシネマ

「アデル、ブルーは熱い色」のネタバレあらすじ結末

アデル、ブルーは熱い色の概要:女子高生のアデルは、青い髪のボーイッシュなエマと出会い、レズビアンである自分を受け入れ、彼女と愛し合う。アデル・エグザルホプロスとレア・セドゥが、レズビアンのカップルを熱演しており、特にエマを演じたレア・セドゥの中性的な魅力は、芸術的ですらある。

アデル、ブルーは熱い色の作品概要

アデル、ブルーは熱い色

公開日:2013年
上映時間:179分
ジャンル:ラブストーリー、青春
監督:アブデラティフ・ケシシュ
キャスト:アデル・エグザルコプロス、レア・セドゥ、サリム・ケシュシュ、モナ・ヴァルラヴェン etc

アデル、ブルーは熱い色の登場人物(キャスト)

アデル(アデル・エグザルホプロス)
17歳の高校2年生。男の子との経験もあるが、エマと出会い、自分がレズビアンであることに気づいていく。平凡な家庭に育った普通の女子高生で、あまり自己主張をしないタイプ。
エマ(レア・セドゥ)
美術学校4年生の時にアデルと出会い、恋に落ちる。髪を青く染めた芸術家タイプで、哲学にも詳しい。自由な雰囲気の家庭に育ち、しっかりとした自分の意思を持っている。

アデル、ブルーは熱い色のネタバレあらすじ

映画『アデル、ブルーは熱い色』のあらすじを結末まで解説しています。この先、ネタバレ含んでいるためご注意ください。

アデル、ブルーは熱い色のあらすじ【起】

平凡な女子高生のアデルは、現在17歳の高校2年生。女友達は男の子の話ばかりしており、トマという3年生の男の子のことで、アデルをからかう。どうやらトマは、アデルに気があるようだった。

バスでトマと話したアデルは、休みの日にデートの約束をする。待ち合わせ場所へ向かう途中、アデルは青い髪のボーイッシュな雰囲気の女性とすれ違う。アデルはなぜかその女性が気になり、彼女を目で追う。その女性も、アデルの方を振り返っていた。

トマと平凡なデートを楽しみ、キスまでするが、アデルの頭の中は青い髪の女性のことでいっぱいだった。アデルは自分の妄想を打ち消すように、トマとセックスをしてみるが、なぜか満たされない。アデルは悩んだ末、トマと別れる。

ある日、アデルは学校で同級生の女子からキスされる。アデルはその気になり、翌日その子にキスをするが、彼女はレズビアンではなかった。落ち込んでいるアデルを、男友達がゲイバーに誘ってくれる。

ゲイバーのすぐそばには、レズビアンが集まるバーがあり、アデルはひとりでそこへ入ってみる。バーにはあの青い髪の女性がいて、アデルに声をかけてくれる。彼女はエマという名の美大生で、画家を目指していた。アデルはエマに学校の名前を教える。

アデル、ブルーは熱い色のあらすじ【承】

翌日、エマが学校までアデルを誘いにくる。アデルは友人たちが呼んでいるのも無視して、エマと行ってしまう。エマは公園のベンチでアデルの絵を描いてくれる。別れ際、アデルはエマに電話番号を渡し、“必ず電話して”とお願いする。エマはアデルの頰に優しくキスしてくれる。エマはその日のうちに電話をくれた。

エマは見るからにレズビアンといった風貌をしており、学校の友人たちは、アデルをレズビアンなのかとからかってくる。しつこく絡んでくる女子に腹を立てたアデルは、彼女と掴み合いの喧嘩をする。

アデルとエマは公園で寝転んで、様々な話をする。アデルは自分からエマにキスをし、エマもそれを受け入れてくれる。2人はカップルとなり、アデルはエマと一緒に、同性愛者のデモ行進にも参加する。

エマはアデルを自宅に招き、母親と義理の父親に紹介してくれる。エマの家は開放的で、エマがレズビアンであることも認めていた。アデルはエマのパートナーとして歓迎してもらう。

翌日はアデルの18歳の誕生日で、両親と友人たちがサプライズパーティーを開いてくれる。アデルは友人たちと、庭でパーティーを楽しむ。

アデルもエマを自宅に招待し、両親に紹介する。しかしエマは“哲学の課題を手伝ってくれた年上の友人”ということになっていた。エマは、保守的で平凡なアデルの両親に話を合わせ、彼氏がいると嘘をついてくれる。しかしその晩アデルの部屋で、2人は熱烈に愛し合っていた。

アデル、ブルーは熱い色のあらすじ【転】

それから数年後。アデルは幼稚園の先生になり、エマは画家になっていた。2人は同棲していたが、アデルの職場にはそのことを伏せていた。

自宅でエマの芸術関係の仲間を招くパーティーを開くことになり、アデルは一生懸命料理を作る。エマはみんなにパートナーとしてアデルを紹介してくれる。エマの知り合いは芸術的な雰囲気のインテリばかりで、アデルはすっかり気疲れする。

エマは画家として大成するという目標に向かって、常に挑戦を続けていた。しかしアデルにはそういう目標がなく、それがアデルのコンプレックスになっていた。エマも向上心のないアデルに、何処か物足りなさを感じていた。

エマは、妊娠中のリーズという画家と創作活動をしており、遅くなることが増え始める。アデルは寂しくてたまらず、幼稚園の同僚の男性教師と踊りに行き、酔った勢いでキスをする。

ある晩、アデルは男性教師に車で自宅前まで送ってもらい、車内でキスをして別れる。帰宅すると、いないと思っていたエマがいて、“今の男は誰?”と詰問される。アデルは必死で嘘をつくが、エマは2人のキスを目撃しており、アデルが男と寝ていると確信していた。エマは、アデルが男と寝ていたこと以上に、嘘をついたことに激昂し、家から出て行くよう迫る。アデルは泣きじゃくりながら必死でエマにすがりつくが、エマは決して許してくれず、アデルを家から追い出してしまう。

アデル、ブルーは熱い色のあらすじ【結】

エマを失ったアデルは、いつ何処にいてもエマのことを思い出し、涙がこぼれそうになる。仕事中でも、アデルの頭の中はエマのことでいっぱいだった。

アデルは小学校の先生となり、忙しい日々を送る。しかしアデルはどうしてもエマのことが忘れられず、思い切って彼女を呼び出す。

エマはアデルの呼び出しに応じてくれ、2人は久しぶりに再会する。エマは画家として成功し、順調に展覧会を開いていた。現在のエマのパートナーはリーズで、3歳になるリーズの娘と3人で暮らしている。アデルは、“それが私の家族”というエマの言葉を聞き、たまらなくなる。

アデルはエマの手を愛撫し、激しいキスをする。エマもリーズとのセックスには満足しておらず、アデルへの未練があった。しかし、曖昧なことを嫌うエマは、“あなたのことは許したけど、もう愛していない”とはっきりアデルを拒絶する。そう言いながら、エマは泣いていた。アデルは自分がエマを苦しめていることに気づき、エマを諦めなければならないと悟る。2人は最後に抱き合い、泣きながら別れる。アデルは、本当にこれで終わりなのだと実感し、茫然自失となる。

それからしばらくして、エマから招待状をもらったアデルは、青い服を着て、エマの展覧会へ行く。エマはアデルを歓迎してくれるが、2人はどこかぎこちなかった。

アデルは、多くの人に祝福されるエマと、彼女の横に立つリーズを見ながら、孤独に打ちひしがれる。そんなアデルに、以前パーティーで会った俳優の男が声をかけてくれるが、アデルの心は癒されない。アデルは、ひっそりと会場を去る。青い服を着たアデルの後ろ姿は、随分と大人っぽくなっていた。

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みんなの感想・レビュー

  1. 匿名 より:

    今作が話題に挙がる際最も注目されるのは、その写実的な性描写についてであり、確かにアデル・エグザルコプロスとレア・セドゥーの体当たり演技には賞賛を送りたい。ただ恋愛映画として今作を見た時に物足りなさを感じるのもまた事実である。それは恋愛映画において必須要素である「困難」が、一見今作には抜け落ちているように見えるからだ。時に難病であり戦争であり、或いはすれ違いなんていう小さなものでも、愛する二人を隔てる「困難」は恋愛映画には必要不可欠な要素であり、それを乗り越えたり、時には屈服する所に観客はカタルシスを覚えるのだ。例えば同じ同性愛を描いたアン・リー監督の『ブロークンバック・マウンテン』は、周囲のゲイに対する差別が「困難」として機能しており、同性愛という特殊なシチュエーションでも優れた恋愛映画として多くの人に認識されている。それに引き換え今作では同性愛に対する差別が描かれるシーンは少ない。両親や周囲へのカミングアウトの時間軸がすっぽり抜け落ちていることからも、それを意図的に外しているとも思える。
    答えから言ってしまうと今作における「困難」とは「階級」である。アデルとエマは一見対等の自由恋愛をしているようだが、実はアデルは一般層、エマはインテリ層に属している。それは互いの家を行き来した際の食事のシーンでも明らかに描かれており、アデルの家では大量のパスタ、エマの家では牡蠣とワインが振る舞われるのだ。二人が同棲してからのパーティーではこの差が浮き彫りになってくる。高尚な芸術論を交わすエマとその友人たちに、お手製のパスタを何とか振る舞おうとするアデルの姿は実に痛ましい。結果としてアデルの浮気で二人の関係は終わるが、その根底にあるのはこの「階級」の違いである。そしてこれはフランスにおける社会問題であり、この映画同様巧みに隠蔽されている問題なのだ。

  2. 匿名 より:

    リアルな性描写には賛否両論あるだろうが主演二人の熱演には一見の価値があるし、タイトルにも入っている青を差し色とした色彩設計は見事だ(ラストシーンでアデルが着ているドレスの青の孤独な鮮烈さ!)。恋愛映画のふりをして実は社会問題を描いていることも評価できる。ただ恋愛映画として見ると肩すかしを食らってしまうだろう。二人の行為は食事や睡眠といった日常と地続きのものとして描かれておりトキメキには欠けるし、アデルの成長物語としても物足りない。そして何よりも3時間という上映時間は一般的に考えて長過ぎるのではないか。恋愛映画で二人が会話を交わすまでに50分近く費やしてしまうのは流石に冗長だと思う。恋愛映画と思って手を伸ばすのは危険過ぎる。