映画『わたしはマララ』の概要:マララ・ユフスザイはイスラム教の家庭に生まれた。故郷パキスタンを追われ、家族とイギリスに暮らしている。女子が教育権利を持たないことに疑問を投じ、その訴えはやがてノーベル平和賞受賞という奇跡に繋がる。一人の少女の半生を綴ったドキュメンタリー。
映画『わたしはマララ』の作品情報
上映時間:88分
ジャンル:ドキュメンタリー
監督:デイヴィス・グッゲンハイム
キャスト:マララ・ユスフザイ etc
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映画『わたしはマララ』の登場人物(キャスト)
- マララ・ユフスザイ
- 撮影当初15歳。パキスタンのスワート出身で、イスラム教徒。抗議活動を行ったことで、タリバンの襲撃を受け故郷を追われる。イスラム教の女子が教育を受けられないことに疑問を呈し、その活動は世界に大きな影響を与える。
- ジアウディン・ユフスザイ
- マララの父。元教師で、マララの社会活動に大きな影響を与えた。娘の講演活動には常に同伴し、親子の関係を超えて魂の絆で結ばれている。厳格なイスラム教を信仰しながら、男女同権に寛容でリベラルな思考を持つ。吃音がコンプレックスだったが、父の激励で困難を乗り越えた。
- トーア・ペカイ・ユスフザイ
- マララの母。教育は受けておらず、読み書きが得意ではない。夫ジアウディンとは教徒間でも珍しい恋愛結婚をした。古風なイスラム教の思想を持つが、マララと夫の活動は静かに見守る。
- クシャル・ユスフザイ
- マララの弟、長男。年頃の少年らしく陽気。姉のマララにはきつく当たられることもしばしば。
- アタル・ユスフザイ
- マララの二番目の弟、末っ子。甘えん坊だがどこか大人ぶっている。兄のクシャルにからかわれて姉にかばわれるが、なぜか姉に容赦なく叱られることを不服に思う。
- マウラーナ・ファズルッラー
- スワートに進攻した過激派組織タリバンのムッラー。最初はにこやかな好人物を思わせ、女性の権利を主張して市民からは好評だった。マララが抗議活動を行うのと同時に、徐々にその冷酷な本性を明らかにする。
映画『わたしはマララ』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『わたしはマララ』のあらすじ【起】
過激派組織タリバンの一味が、一人のイスラム系少女を撃った。少女は当時15歳のマララ。マララは重傷を負い、救急搬送され死の淵を彷徨った。マララは一命を取り留めるが、目を覚ましてからの第一声は、「父はどこ?」少女は、このように活動に向かわせた父に初めて怒りを見せた。
2013年、イギリス・バーミンガム。マララは2人の弟と両親と5人で暮らしている。社会活動のときこそ大物ぶりを伺わせるが、普段は年相応の少女でおてんばな一面を見せた。ユフスザイ一家が、パキスタンからイギリスに移住して1年が経った。マララはマスメディアに引っ張りだこで、そのそばには常に父ジアウディンが付き添っている。
故郷パキスタンには、今でも帰還することができない。タリバンにとって、マララは目の上のたん瘤的存在であるため命を狙われていた。マララの身体には致命傷の傷跡が残っているが、本人は襲撃犯を憎むことは無いと明言している。2007年にタリバンがパキスタン・スワートに進攻し、その進攻の指導者ファズルッラーが独裁政府を創設した。
ジアウディンは教師を志し、学校を建設した。マララは幼少の頃から学校に入り浸り、父が子どもたちと学習しているのを興味津々に観察していた。教職の父の影響もあり、マララは教えたり伝えたりすることに憧れを抱く。
映画『わたしはマララ』のあらすじ【承】
マララ襲撃の際には、一緒にいた友人たちも巻き込まれた。ファズルッラーは、進攻当初女性の立場に寛容的で女性平等を謳っていた。マララは、スワートにいた頃から勉強熱心で品行方正な少女として評判が高かった。現在のマララの生活は、学業と講演活動に占められていた。世界各国の著名人と対談し、貧困地域の少女たちを訪ね歩いた。
スワートに独裁政府が出来た後、ファズルッラーは市民の生活を束縛し始めた。外国製品の購入の禁止、いわゆる俗的なものの使用を一切禁じたのだ。パキスタンの紛争は激化していた。ナイジェリアでは、ボコ・ハラムが女子学生を大量に拉致するという事件が起きる。マララは、被害者の親たちと立ち上がり、被害者捜索のためのキャンペーンを行った。
マララの勇敢なアクションに限らず、少女らしい部分も垣間見ることはできる。マララはクリケットの大ファンで、お気に入りの選手もいる。弟たちは器用そうだが、マララは自分の恋愛には不器用だろう面を伺わせた。
ジアウディンの過去が明かされる。ジアウディンは、子どもの頃から吃音がコンプレックスだった。が、演説家の父のバックアップでその恐怖を勇気に変えた。自信を得たジアウディンは、タリバンの独裁政治に異論を唱える。ジアウディンの抗議仲間は、タリバンに次々と粛清されていった。
映画『わたしはマララ』のあらすじ【転】
時代は2013年。タリバンは女子教育に激しく反対し、何百もの学校を破壊する。処刑を恐れた住民たちは、連中の暴走を黙認してしまっていた。当時スワートに居住していたマララは、沈黙する住民の代わりに日記をつけ始める。文章化された惨状は、イギリスのマスメディアを通して世界に報じられた。その後、ユスフザイ一家は住居を転々とする。
故郷を離れたマララを、故郷の人々は欧米に媚びを売っていると批判しだした。その一因として、マララ本人が個人の恐怖感情を表に出さないことがあった。内面では、マララはパキスタン紛争での体験に苛まれていた。
タリバンは、女子の通学を完全に禁止し、政府軍との対立が激化した。スワートの人々は故郷を追われ、国内難民となった。3ヶ月後、ユスフザイ一家がスワートに戻っても、以前のような健全な生活状態が取り戻されてはいなかった。マララは人のいない民家で、ある映像を撮った。それは、スワート全土に向けた、ファズルッラーを名指しで批判するものだった。映像は、インターネット上で世界の人々に伝えられる。
映画『わたしはマララ』の結末・ラスト(ネタバレ)
スワートでの、学校からの登下校のバス。タリバン一味がバスを奇襲し、マララが標的にされた。身体にまともに銃弾を受け、まだ子どもである少女は意識不明の重体となる。パキスタン国外の病院に移され、集中治療が施された。ジアウディンは、命が助かったとしても、重い後遺症が残るのではないかという不安に駆られる。
マララは無事に意識を取り戻し、初めてジアウディンに激情を露にした。父が自分のアクションを止めていれば、ここまでの事態には至らなかった、と。それは、父を通して命の危険を顧みなかったマララ自身への怒りかもしれない。懸命なリハビリの末、マララは回復した。
ニューヨークの国連本部。マララは16歳の誕生日を迎えると同時に、議会の壇上に立った。マララは、「銃撃され、私の中の恐怖と絶望は死にました。私の志は、変わっていません」と強く語った。次に、かの有名な言葉が続く―「1人の子ども、1人の教師が、一冊の教科書とペンを持てば世界は変えられます」
マララは、インタビュアーに父親が決めた人生になったが不満か、と聞かれる。彼女は、父は「マラライ(英雄)」という名を与えただけで、この人生は私自身が選んだもの、と答えた。2014年、マララは史上最年少でノーベル賞平和賞を受賞する。マララは、「私の声は世界中の女の子たちの声だ」と言葉にした。
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