この記事では、映画『愛がなんだ』のあらすじをネタバレありの起承転結で解説し、この映画の疑問や謎をわかりやすく考察・解説しています。
映画『愛がなんだ』の作品情報
出典:Amazonプライムビデオ
製作年 | 2018年 |
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上映時間 | 123分 |
ジャンル | コメディ ドラマ ロマンス |
監督 | 今泉力哉 |
キャスト | 岸井ゆきの 成田凌 深川麻衣 若葉竜也 |
製作国 | 日本 |
映画『愛がなんだ』の登場人物(キャスト)
- テルコ(岸井ゆきの)
- マモルに惚れ込み、生活の全ての優先事項がマモルになってしまう。そのため、仕事や友人関係も崩れるが、どう頑張ってもマモルの恋人になれない。いつしかマモルに対する恋愛感情は、執着に変わっていた。
- マモル(成田凌)
- 鈍感だが、思わせぶりな態度でテルコを振り回す。テルコの気持ちを考えず、恋人のような態度をとることもあれば、あっけらかんと別の女性に好意があることをテルコに伝えたりする。
- スミレ(江口のりこ)
- ガサツで言葉使いが荒く、さばけた性格。マモルの好意にも、興味がないと切り捨てる。
映画『愛がなんだ』のネタバレ・あらすじ(起承転結)
映画『愛がなんだ』のあらすじ【起】
ある日突然、テルコの元にマモルから電話がかかってきた。マモルは、体調を崩し動けないから何か食べ物を届けて欲しい、とテルコに言った。マモルからの連絡に浮かれ、マモルの家に駆け付けたテルコは、味噌煮込みうどんを作り、部屋の掃除を始める。そんなテルコを見てマモルは、もう家に帰ってくれないか、とテルコを追い返す。テルコは、その足で友人の葉子の家に向かう。葉子はマモルの態度を非難し、テルコとマモルの関係を心配した。
テルコとマモルは知り合いの結婚パーティーで出会った。パーティーに馴染めなかった2人はすぐに打ち解け、それ以来テルコは、毎週金曜日に来るマモルからの連絡を待ち望むようになっていた。テルコは、マモルから連絡が来たらいつでも対応できるように会社で時間を潰し、連絡が来なければ深夜1人で家に帰るのであった。
夜遅くにマモルから連絡があり、テルコとマモルは居酒屋で食事をする。2人は朝まで飲み明かし、マモルの提案でタクシーに乗りマモルの家に帰宅した。2人で一緒に寝て、昼過ぎから散歩に出かけた。その日から、毎日のようにマモルから連絡が来るようになったテルコは、連絡が来たらすぐに対応できるように備え、終電がなくなったら当たり前のようにマモルの家に泊まるようになった。
映画『愛がなんだ』のあらすじ【承】
ある日、テルコは仕事を休んでマモルと動物園に行く。テルコは象の檻の前でテルコは、会社を辞めることになるかも、とマモルに打ち明ける。マモルは、自由で良いな、とあっけらかんとして、自分は象の飼育員になろうかな、とふざけた。テルコはそれを聞き、マモルの未来に自分も含まれているような気がして嬉しくなり、泣き出す。
テルコは仕事を辞めたのではなく、クビになっていた。テルコは恋愛運と仕事運は反比例するところがあるから、恋愛運を下げないために暫く仕事はしない、と葉子に宣言する。葉子は、まともでない、とテルコを咎めるが、テルコは、マモルと多分付き合い始めていて結婚するかも、と濁した。
会社を退職した帰り道、テルコは2人用の土鍋を買ってマモルの家に帰宅した。マモルの洋服棚を整理したり部屋を掃除するなど、尽くすテルコに、マモルは嫌気が差していた。翌朝、いつもより早く仕事に行くと言ったマモルは、他人に留守中の部屋にいられたくない、とテルコを追い出すように捲し立て、それ以降一切テルコに連絡をしなくなった。
映画『愛がなんだ』のあらすじ【転】
マモルから連絡がないまま、いつしか季節は冬から春になった。新しい仕事探しの面接中に、突然マモルから電話がかかってきた。呼び出された先のカフェには、マモルと一緒にスミレという女がいた。スミレはテルコと真逆のタイプで、派手な柄シャツを着て煙草を吸い、ガサツな態度だった。マモルとスミレは合コンで知り合ったと聞かされたテルコは、帰り際に、スミレは恋人なのか、とマモルに問う。マモルは、テルコの先回りして気を遣うところや自意識過剰が苦手、とスミレを見習うようにテルコに言った。
銭湯でバイトを始めたテルコにスミレから連絡が入る。スミレの友人たちが集まるクラブパーティーに呼ばれたテルコは、クラブの雰囲気に馴染めずマモルに連絡する。スミレもいることを伝えると、マモルはすぐにクラブに現れたが、テルコと同じように周囲の雰囲気に馴染めなかった。マモルはスミレの灰皿を替えたり、飲み物を注いで気を引こうとするが、軽くあしらわれた。マモルとテルコは店を後にし、2人でテルコの家に帰宅する。なんとなくの流れで一緒に寝ている時に、テルコはマモルに、スミレじゃなくて私で良いじゃん、と呟くがマモルは曖昧にしたまま寝てしまった。
映画『愛がなんだ』の結末・ラスト(ネタバレ)
テルコとテルコの友人、マモル、スミレの4人でバーベキューに行くことになる。そこでスミレはテルコに、マモルから告白されたことを匂わせるが、マモルに興味が無く、マモルはテルコみたいな人と付き合うのが合っていると言った。テルコは複雑な表情を浮かべた。
後日突然、テルコに話がある、とマモルはテルコの家の前にやって来た。スミレのことが本気で好きなマモルは、スミレに会うためにテルコを利用していたことを告白し、お互いのためにもう会うのをやめよう、と伝えた。テルコは強がって、もうとっくに冷めているから会わなくなる必要はない、とマモルに言った。マモルに安心した、と言われてしまったテルコは、これからは友達として互いの恋愛に協力し合おう、と無理に笑った。
テルコはマモルにこんなにも執着している理由がわからなかったが、それはもう恋だとか愛だとかそんなことはとっくにどうでも良い問題になっていた。そんなことを思いながら、テルコはマモルとデートした動物園で象の飼育員になっていた。
映画『愛がなんだ』の考察・解説(ネタバレ)
映画『愛がなんだ』が気持ち悪いと言われる理由
映画『愛がなんだ』が「気持ち悪い」と評される理由の一つは、主人公テルコがマモルに対して極端に依存的で盲目的な愛情を抱いていることにあります。テルコは自己犠牲的にマモルを支えたいという強い欲求を持ち、そのために自分自身の生活や感情を犠牲にしてしまいます。このような過剰な愛情表現や依存的な行動は、観客に「気持ち悪さ」を感じさせることがあるのです。
また、テルコの行動が時として自己中心的で、相手の気持ちを考慮しないように見える点も、観客に不快感を与える要因となっています。彼女はマモルに愛情を注ぐ一方で、マモルが彼女に対してそれほど深い感情を持っていないことに気づかず、一方的に愛を押し付ける場面が続きます。マモルの冷淡な態度にもかかわらず、テルコは執着心を手放さず、このアンバランスな関係性が観客に不自然で不快な印象を与えるのです。
さらに、映画全体に漂う感情の未熟さや曖昧さが、特定の視聴者には気持ち悪く感じられるかもしれません。登場人物たちの感情や行動が時に無理矢理に見えたり、理不尽に感じられたりするため、感情移入が難しく、観客に居心地の悪さを与えるシーンが散見されます。このような感情の曖昧さが、映画全体の不快感や「気持ち悪さ」を助長していると言えるでしょう。
映画『愛がなんだ』に気まずいシーンはあるか?
映画『愛がなんだ』には、観客が「気まずさ」を感じるシーンがいくつか存在します。特に、テルコとマモルの関係における不均衡な愛情表現が、観る者に居心地の悪さを感じさせる大きな要因となっています。テルコはマモルを深く愛し、彼のために献身的に尽くしますが、マモルはテルコに対して同じレベルの感情を持っておらず、冷ややかな態度を取り続けます。この不釣り合いな愛情のやり取りが、見ている側に「気まずさ」を感じさせるのです。
例えば、テルコが幾度となくマモルのために家事を手伝ったり、彼の家に頻繁に足を運ぶシーンでは、マモルが彼女を完全に利用しているように見えることがあります。彼はテルコの好意を当然のように受け入れながらも、彼女に対して特別な感情を示さず、この一方的な関係性が観客に不快感や気まずさを与えるのです。特に、テルコが必死にマモルに気に入られようとする姿が強調される場面では、彼女の自己犠牲的な行動が視聴者に強い「気まずさ」を感じさせます。
また、他の登場人物とのやり取りの中でも、微妙な感情のすれ違いが描かれる場面が多く、その中で誰かが傷ついたり、無関心だったりする瞬間が続くことで、観客に不安定な感情を引き起こします。こうしたシーンが多く含まれるため、映画全体に「気まずい」雰囲気が漂っているのです。
映画『愛がなんだ』のラストの象の意味は?
映画『愛がなんだ』のラストに登場する象のシーンは、観客に様々な解釈の余地を与える象徴的な場面です。この象は、テルコの感情や状況を象徴していると捉えることができます。映画全体を通して、テルコは自分の感情を表現し、他者に受け入れてもらうことに苦悩しています。彼女の愛情はしばしば一方的で報われないものであり、象が登場するラストシーンは、彼女がこの不均衡な愛の結果を受け入れ、ある種の成長を遂げたことを示唆していると考えられます。
象は、テルコが直面している重圧や無力感を象徴しているとも言えます。象は巨大で、力強い存在であり、テルコが抱えていた感情の重さや、自分ではどうすることもできない状況を暗示しているのかもしれません。テルコは長らく、マモルに対して自分の気持ちを押し付けてきましたが、最後に象のシーンが描かれることで、彼女がその重荷や執着から解放される瞬間を象徴していると解釈できます。
また、象が静かに佇む姿は、テルコが自分の感情と向き合い、マモルとの関係を一定の距離を保って見つめることができるようになったことを示しているのかもしれません。象は動くことなく、ただそこに存在するだけであり、テルコ自身が愛への執着を手放し、少しずつ自分の心を整理していくことを暗示しているのです。
このように、象のシーンは、映画の終わりにテルコが自分の人生を再び見つめ直し、新たな一歩を踏み出すことを示唆する象徴的な意味を持っていると言えるでしょう。
映画『愛がなんだ』の中原がコンビニでつばを吐いた理由
映画『愛がなんだ』の中で、中原がコンビニでつばを吐くシーンは、彼の感情やフラストレーションを象徴する重要な場面です。中原は、物語全体を通して自身の感情や人間関係において、満たされない部分や葛藤を抱えています。つばを吐くという行為は、彼が抱える不満やイライラを外に表出し、自己制御が効かなくなっていることを示しているのです。
中原は、自分の感情をうまくコントロールできず、恋愛や人間関係においてもどかしさを感じています。彼はテルコや葉子との関係の中で、自分が思い描く理想とはかけ離れた現実に直面し、フラストレーションが蓄積しているのです。このシーンでのつばを吐く行動は、彼の内面にある感情の爆発や無力感を表現するものとして描かれています。
また、つばを吐く行為は、彼が自分の置かれた状況や環境に対して嫌悪感を抱いていることを示す行動でもあります。自分の感情を思うように表現できないまま、周囲の人間関係に振り回されている中原は、無意識のうちに内面に溜まった不快感を吐き出す形で行動に出てしまったのでしょう。彼の心の中で感じている無力さや苛立ちが、このシーンで端的に表現されているのです。
このつばを吐くシーンは、中原の抱える複雑な感情を象徴しており、観客に彼の心情を理解させる重要なポイントとなっています。
映画『愛がなんだ』が「意味がわからない」と言われる理由
映画『愛がなんだ』が「意味がわからない」と言われる理由の一つは、登場人物たちの感情や行動が非常に複雑で、現実的な動機がはっきりしないためです。主人公のテルコがマモルに対して極端な執着心を見せる一方で、マモルは彼女に対して冷淡で、感情的な距離を保っています。この不均衡な愛のやり取りは、多くの観客にとって理解し難いものとなり、彼らの行動の背後にある動機が掴みにくいことから「意味がわからない」と感じる原因となっているのです。
また、物語全体の展開が劇的な出来事や明確な解決を避けている点も、観客が「意味不明」と感じる理由の一つです。映画は登場人物たちがそれぞれの感情に翻弄される様子を描いていますが、明確な結論やメッセージを提示せず、感情の揺れ動きを淡々と追いかけていくため、視聴者が物語の核心を掴むことが難しくなっています。観客は、なぜ登場人物たちがそのように行動するのか、どのような結末に至るのかが明確でないと感じることがあるのです。
さらに、映画のテーマである「愛」の描き方が非常に現実的で、理想化された恋愛とはかけ離れている点も、混乱を招く要因となっています。テルコが自己犠牲的にマモルに尽くし続ける一方で、その努力が報われることはなく、観客が期待する「ハッピーエンド」や「恋愛の成就」には繋がりません。このような非現実的な状況や感情の描写が、観客にとって「意味がわからない」と思わせる要因となっているのです。
映画『愛がなんだ』の葉子の中原への態度を考察!
映画『愛がなんだ』における葉子の中原に対する態度は、複雑で一貫性に欠けるように見えるため、観客に様々な解釈を与えています。葉子は中原に対して特別な感情を抱いているようにも見えますが、それを明確に表現することはなく、中原との距離感を意図的に保っているように感じられます。
葉子は、物語を通して自分の感情を表に出すことを避け、自分の意思に従って行動する一方で、他者の感情には無関心な態度を取ることが多いのです。中原に対しても、彼が彼女に好意を持っていることを知りつつも、それに応えるわけでも拒絶するわけでもなく、曖昧な態度を取り続けます。葉子は自分の人生をコントロールしようとしている反面、人間関係においては距離を置き、感情的な依存や関わりを避けようとする傾向があるのです。
中原に対しても同様で、彼が彼女にどれほどの感情を抱いているかを理解しているものの、それに対して積極的に応じることなく、むしろ自分のペースで関係を維持することを選択しています。葉子の態度は、中原に対して明確な関係性を築こうとしないため、中原は葉子に振り回されてしまうのです。
このように、葉子の中原への態度は彼女自身の内面的な不安や葛藤を反映しており、彼女が他者との親密な関係を築くことに対してどこか抵抗感を持っていることが窺えます。葉子は感情をコントロールし、相手に深く関わらないようにしているため、その態度が複雑に見えるのです。
映画『愛がなんだ』のすみれを考察!なぜテルコを気にいったのか?
映画『愛がなんだ』に登場するすみれがテルコを気に入った理由については、いくつかの要因が考えられます。まず、すみれはテルコの純粋でストレートな性格に惹かれている可能性があります。テルコは自分の感情に正直で、好きな人のために尽くす姿勢が一貫しています。このようなテルコの在り方は、すみれにとって新鮮であり、彼女がテルコの行動に興味を持つきっかけとなったのかもしれません。
すみれ自身も複雑な人間関係や感情を抱えていますが、テルコのように感情をストレートに表現することができないタイプです。彼女は自分の心情をうまくコントロールし、他者との距離を保つ傾向がありますが、テルコは自分の感情を隠すことなく、愛する人のために行動する姿が魅力的に映っているのでしょう。テルコの無垢な愛情表現や、相手に対する献身的な姿勢は、すみれにとって何か共感できる部分があったのかもしれません。
また、すみれはテルコの行動に対して好意的な感情を持ちながらも、同時に自分にはできないことをテルコが実行していることに興味を持っています。テルコのように好きな相手に全力で向き合う姿勢は、すみれにとって羨ましく感じられる部分でもあるのです。すみれがテルコを気に入った理由は、テルコの純粋さや情熱が彼女にとって魅力的であり、自分とは異なる感情の表現方法に興味を抱いたからだと考えられます。
映画『愛がなんだ』の中原と葉子の関係はどうなる?
映画『愛がなんだ』の中で、中原と葉子の関係は物語の終盤に至っても完全に明確な解決を迎えることはありません。中原は葉子に対して強い感情を抱いていますが、葉子は一貫して中原との距離を保とうとする態度を取り続けるのです。この二人の感情のすれ違いが、関係性を曖昧なままにしている大きな要因となっています。
中原は葉子に対して心からの愛情を示していますが、葉子からの反応は冷ややかで、中原の感情が報われることはありません。葉子は中原の気持ちに気づいているにもかかわらず、それに応えようとせず、自分のペースで距離を置いているのです。葉子にとって、自分の人生の中で他者との関係性を深めることは慎重に考えるべきことであり、特に中原の感情に応えることは難しいと感じているようです。
結局のところ、中原と葉子の関係は明確な結論を迎えることなく、観客に様々な解釈の余地を残したまま終わります。二人の関係は、感情のアンバランスやコミュニケーション不足が原因で曖昧なまま物語が幕を閉じるため、観客としても何か物足りなさを感じるかもしれません。しかし、この不確かな結末こそが、映画全体のテーマである「愛の不完全さ」を象徴しており、愛が必ずしも報われるとは限らない現実を描いていると言えるでしょう。
映画『愛がなんだ』が伝えたいことは何か?
映画『愛がなんだ』が観客に伝えようとしているのは、愛の多様性や不完全さ、そして自己犠牲的な愛の限界についてです。この作品では、主人公のテルコがマモルに対して一方的に愛情を注ぎ続けますが、その愛が必ずしも報われるとは限りません。テルコは自分のすべてをマモルのために捧げることで幸せを掴もうとしますが、最終的には自分自身が虚しさに苛まれてしまうのです。この状況は、観客に「愛とは一体何なのか?」という根本的な問いを投げかけています。
映画の中で描かれる愛は、理想的な愛や互いに深く愛し合う関係とは異なり、極めて不均衡なものです。テルコはマモルに対して献身的に尽くしますが、マモルはそれを当然のように受け止め、テルコに対して特別な感情を抱いているわけではありません。このような一方的な愛の姿は、自己犠牲的な愛が必ずしも幸福に結びつくとは限らないというメッセージを伝えているのです。愛とは、相手を喜ばせるだけでなく、自分自身の幸せをも大切にするべきものだという考え方が浮かび上がってきます。
また、映画全体を通して「愛は必ずしも報われるものではない」という現実的な側面が描かれています。登場人物たちはそれぞれ自分の感情や欲望に忠実に生きながらも、必ずしも理想的な関係を築くことができていません。このことから、映画は愛の難しさや複雑さを強調し、愛がシンプルなものではないことを伝えているのです。
結論として、映画『愛がなんだ』は、愛の美しさや喜びだけでなく、その裏に潜む痛みや苦しみ、不安定さをリアルに描き出しています。愛における自己犠牲や報われない感情の行方を通して、愛の本質について観客に深く考えさせる作品なのです。
映画『愛がなんだ』の最後で葉子が中原くんの写真展に来た理由
映画のラストシーンで、葉子が中原の写真展に姿を現したことは、二人の関係性において重要な意味を持っています。このシーンは、葉子が初めて中原の努力や情熱に真正面から向き合い、彼の存在を認めたことを示唆しているのです。これまで葉子は、中原の気持ちや彼自身にあまり関心を払わず、冷たい態度を取り続けてきました。しかし、中原が開催した写真展に足を運ぶという行動は、葉子が少しずつ中原に対する見方を変え始めたことを物語っています。
葉子が写真展に来た理由として考えられるのは、彼女が中原の情熱や才能を理解し、尊重しようと決意したからでしょう。中原は常に葉子に対して好意を示し、彼女の存在を大切にしてきましたが、葉子はこれまでその気持ちを真っ向から受け止めることができずにいました。しかし、中原が自分の作品を発表するという重要な機会に、葉子は彼を支えようという気持ちが芽生えたのです。
また、このシーンは葉子自身の感情的な成長をも象徴しています。葉子はこれまで他者との距離感を保つことに固執してきましたが、中原の写真展に足を運ぶことで、彼との関係において一歩前進する決意をしたとも解釈できます。葉子は中原に対して心を開く準備ができつつあることを示しており、二人の関係性がここから新たな展開を迎える可能性を暗示しているのです。
最後に、葉子が写真展に足を運ぶという行動は、彼女がこれまで感じていた迷いや葛藤を乗り越え、中原との新たな関係性を築く意志を持ち始めたことを示す重要なシーンだと言えます。この場面は、二人の関係における変化の兆しを観客に伝え、物語全体の締めくくりとして効果的に機能しているのです。
映画『愛がなんだ』はどこで見れる?フルで無料視聴する方法は?
映画『愛がなんだ』を見逃した人やもう一度見たい人のために、以下の記事では映画『愛がなんだ』のフルを無料視聴できる動画配信サービスと方法について紹介しています。
ぜひ、以下の記事もご覧いただき、映画『愛がなんだ』をフル視聴してみてはいかがでしょうか。
みんなの感想・レビュー
好きな人中心の生活を送る主人公。恋は盲目とはまさしくこういうことだなと思いました。というか、これは恋愛なのか。良く言えば献身的、悪く言えば狂気的にマモルに尽くすテルコ。マモルは中々なダメ男で、二人の関係は共感できません。本人が幸せならそれで良いんじゃないかと、一歩引いて鑑賞してしまいました。狭い日常を切り取った作品なので、もう少し知名度の低い俳優さんを起用すれば、作品にもっとリアリティが出たのかなとも思います。
全く違うタイプの若い男女が恋愛を繰り広げていく。恋愛といってもそれらは一方的な片思いであったり、共依存的な関係であったりと、いわゆる恋愛映画で描かれるものとはかなり違って生々しい。でもそのすべてが人を突き動かす強度を持っていて、主人公たちはいろいろなことを犠牲にし、傷つきながら生きていく。細やかな演出と俳優たちの演技が素晴らしく、多少大げさであってもどのシーンもリアルに感じられて見応えもある。
恋愛とは、人間関係とは何かについて考えさせられる作品。