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映画『アメリカン・サイコ』のネタバレ・あらすじ・考察・解説

この記事では、映画『アメリカン・サイコ』のあらすじをネタバレありの起承転結で解説し、この映画の疑問や謎をわかりやすく考察・解説しています。

映画『アメリカン・サイコ』の作品情報


出典:U-NEXT

製作年 2000年
上映時間 102分
ジャンル サスペンス
ドラマ
監督 メアリー・ハロン
キャスト クリスチャン・ベイル
ウィレム・デフォー
ジャレッド・レトー
ジョシュ・ルーカス
製作国 アメリカ

映画『アメリカン・サイコ』の登場人物(キャスト)

パトリック・ベイトマン(クリスチャン・ベイル)
若くして成功を収めたエグゼクティブ。実は、常に殺人衝動を心の内に抱えているサイコパス。
ドナルド・キンボール(ウィレム・デフォー)
殺人事件を調査するために雇われた探偵。しかし、その捜査は適当で、結局パトリックに辿り着けなかった。
ポール・アレン(ジャレッド・レトー)
ベイトマンの同僚で彼と同様に非常に優秀な人物。ベイトマンの嫉妬の対象。

映画『アメリカン・サイコ』のネタバレ・あらすじ(起承転結)

映画『アメリカン・サイコ』のあらすじをネタバレありの起承転結で解説しています。この先、ネタバレを含んでいるためご注意ください。

映画『アメリカン・サイコ』のあらすじ【起】

1980年代のアメリカ、ニューヨーク。当時、パトリック・ベイトマンという男性が華々しい生活を送っていた。彼はまだ若干27歳という年齢でありながら、既にエグゼクティブとして大成功を収め、エリート街道まっしぐらな超一流の生活を送っていた。

彼は幸運なことに生まれながらにして裕福な一家に生を受け、ここまで特に何の挫折もなく、この地位まで上り詰めたのである。そんな彼は自身に絶大なる自信を抱いており、自分の周りを常に最高級品の物ばかりで固めていた。

身に付ける物は常に最高級のブランド物、恋人も10人中10人が振り返るような美人。さらに愛人も囲っている、という夢に描いたような生活ぶりを過ごしていたベイトマン。しかし、一見完璧な生活を送っているベイトマンだったが、彼の心は常にどうしようもない虚しさに襲われていた。仕事にやりがいはあったものの、彼の心は常により強い刺激を求めていた。実は、ベイトマンは紛れもないサイコパスだったのだ。

映画『アメリカン・サイコ』のあらすじ【承】

ベイトマンはその穏やかな表情の裏で、常に抑えようのない殺人衝動を抱えていた。彼は、自分が気に入らない人間を、脳裏で何度となく殺してきたのだった。そんな彼の専らの妄想殺人の対象は、自分のライバルでもある、ポール・アレンだった。

ポールはベイトマンをも凌ぎうる優秀な人材だったのだ。しかし、ベイトマンは自分が一番でなければ気が済まない、プライドの塊のような男である。ポールは時にベイトマンよりも一流の物を身につけており、それはベイトマンにとって耐えがたいことだった。ベイトマンにとって、ポールは邪魔者以外の何者でもなかったのだ。ベイトマンは、幾度も信じ難いほど残虐な方法でポールを脳内で殺してきた。

しかし、ある日ベイトマンにとって人生の転機となる出来事が起こる。プライベートや仕事でフラストレーションを感じることが多くなってきたベイトマンは、今まで脳内になんとか留めていた殺人衝動を抑えきれなくなってきたのである。

映画『アメリカン・サイコ』のあらすじ【転】

ベイトマンの心は、徐々に闇に堕ちていく。そして、ベイトマンはある日、街で一人の娼婦を買うのだった。自宅に娼婦を招いたベイトマン。普段の自分の生活とは全く違う、ベイトマンの華やかな自宅に目を輝かせる娼婦。しかし、ベイトマンは彼女と性的関係を持つために彼女を自宅に招いたわけではなかった。彼は、今まで脳内に描いてきた自分の理想の殺人を決行するために、彼女をターゲットに定めたのだ。そして、信じられないほど残虐な方法で、娼婦は殺されてしまったのだった。

今まで一度として満たされることのなかったベイトマンの心だったが、娼婦を殺したことによって初めて満たされたのだった。しかし、それも殺人を犯した直後だけだった。また暫くすると、ベイトマンはどうしようもない空虚感に襲われるようになってしまう。今までであれば心の中で抑制していたその感情。しかし、一度タガが外れてしまったベイトマンの殺人衝動は、抑制不能になっていた。

映画『アメリカン・サイコ』の結末・ラスト(ネタバレ)

それからというもの、ベイトマンは次々と殺人を重ねてしまう。その度に言いようのない恍惚感を感じていたベイトマン。しかし、そんなベイトマンも、次第に自分の中に潜む抑えられない狂気を恐れるようになる。そして、もう誰かを殺さなくて済むように、と自ら警察に出頭するのだった。

ベイトマンは自らの犯行を弁護士に全て打ち明ける。しかし、面倒ごとに巻き込まれたくない弁護士は、優秀なベイトマンがそんなことをするはずない、とベイトマンの言うことを全く信じてくれないのだった。通常ではあり得ないことであるが、ベイトマンの周りには、他者に興味がない自分本位の人間しかいなかった。それゆえに、誰もベイトマンの犯罪に気がつかないのだ。

それは、自らを止めて欲しいと願うベイトマンにとって何よりもの苦痛だった。結局最後までベイトマンは逮捕されることなく、自らの狂気と、その狂気を恐れる理性との間で悩み苦しみ続けることになるのだった。

映画『アメリカン・サイコ』の考察・解説(ネタバレ)

映画『アメリカン・サイコ』の疑問や謎をわかりやすく考察・解説しています。この先、ネタバレを含んでいるためご注意ください。

映画『アメリカン・サイコ』は、名刺バトルが印象に残る?

映画『アメリカン・サイコ』の中で、名刺バトルのシーンは非常に印象的な場面として多くの観客の記憶に残っています。このシーンでは、主人公のパトリック・ベイトマンと彼の同僚たちが、お互いの名刺を見せ合いながら、自分のステータスを誇示し合うのです。ベイトマンは裕福で外見的には成功者の仲間入りを果たしていますが、この名刺バトルの中で、彼の内なる嫉妬心や劣等感が露わになっていきます。

ベイトマンは自分の名刺が他の誰よりも優れていると信じ込んでいましたが、同僚が提示した名刺を目にした瞬間、その名刺が自分のものよりも完璧で美しいことに気づかされます。その時、彼は激しい嫉妬に駆られ、内心では大きな動揺を抑えきれません。このシーンは、ベイトマンの外見上の成功や富の裏側にある、不安定な精神状態を象徴的に示しています。まさに映画全体のテーマである「表面的な成功と内面的な崩壊」が見事に表現されているのです。

この名刺バトルのシーンは、映画特有のユーモアと皮肉に満ちたトーンを強調し、外見やステータスに過剰なまでに執着する登場人物たちの浅はかさを浮き彫りにしています。特にベイトマンの反応は、彼の自己評価の揺らぎを如実に表しており、このシーンが映画の象徴的な一場面となっているのです。

映画『アメリカン・サイコ』に出てくるレストラン「ドーシア」とは?

映画『アメリカン・サイコ』に登場するレストラン「ドーシア」は、主人公のパトリック・ベイトマンとその同僚たちにとって非常に象徴的な存在です。ドーシアはニューヨークの高級レストランとして描かれ、映画の中ではエリート層がステータスを誇示するための舞台として機能しています。ベイトマンにとって、ドーシアに行けるということは一種の成功の証であり、特権階級の一員であることを示す手段なのです。レストランで食事をすることが、自分の社会的地位を証明する方法だと彼は考えているのです。

しかし、物語の中でベイトマンはドーシアの予約を取ることができず、いつもそこに行けないことにイライラを感じています。彼にとってドーシアは、手の届かない完璧な世界の象徴であり、自分がその社会に完全に溶け込めていないことを思い知らされる場所なのです。この焦りや劣等感が、彼の不安定な精神状態をさらに悪化させていきます。

ドーシアは映画全体を通して、1980年代のアメリカにおける成功と富、そして見た目のステータスに執着する社会そのものを象徴しています。登場人物たちが競い合うのは、ドーシアのようなハイソな場所でどれだけ注目を集められるか、どれだけのステータスを誇示できるかという虚栄心の戦いなのです。ドーシア自体は架空のレストランですが、映画の中で描かれる欲望や執着心を表現するための重要な舞台装置として機能しているのです。

映画『アメリカン・サイコ』の吹き替え版がひどいと言われる理由とは?

映画『アメリカン・サイコ』の吹き替え版が「ひどい」と評される理由には、いくつかの要因が挙げられます。特に問題視されているのは、吹き替え声優の演技力不足や、翻訳されたセリフが原作のニュアンスを適切に伝えきれていない点です。この映画は、ブラックコメディや風刺的な要素が色濃く反映されており、主人公のパトリック・ベイトマンという特異なキャラクターが物語の核となっています。しかし、吹き替え版ではその繊細なトーンや独特のブラックユーモアが十分に表現されていないと指摘されているのです。

パトリック・ベイトマンは、冷酷な殺人鬼でありながら表向きは完璧なビジネスマンを演じるという複雑なキャラクターです。彼の言動には皮肉や不条理が含まれていますが、吹き替え版ではその独特のバランス感が損なわれ、セリフがどこか平板に聞こえがちだと言われています。その結果、ベイトマンのキャラクターが本来持つ狂気や冷徹さが薄れ、観客に与えるインパクトが弱まってしまうのです。

また、この映画の内容自体が非常に複雑で、多くのシーンが観客の解釈を要求するものとなっていますが、吹き替え版では翻訳されたセリフがその深みや複雑さを十分に伝えきれていないと感じる人もいるようです。こうした理由から、原作版と比べて吹き替え版は「ひどい」という評価を下されることがあるのです。

映画『アメリカン・サイコ』における名刺の意味とは?

映画『アメリカン・サイコ』の中で、名刺は物語を象徴する非常に重要なアイテムとして登場します。主人公のパトリック・ベイトマンとその同僚たちにとって、名刺はステータスや成功を示すためのツールであり、映画全体を通して「外見」や「社会的地位」への執着を強調するものとなっているのです。

名刺バトルのシーンでは、ベイトマンと彼の同僚たちがお互いの名刺を見せ合い、デザインや質感、用紙の種類などあらゆる細部にまでこだわって優劣を競います。彼らにとって名刺は単なる連絡先を伝える手段ではなく、自分自身の価値や成功を象徴するものであり、その美しさや完璧さこそが彼らのステータスを反映していると信じているのです。

特にベイトマンにとって、名刺は彼のアイデンティティの一部とも言えるものです。他の同僚の名刺が自分のものより優れていると感じた瞬間、彼の内なる不安や劣等感が一気に表面化します。名刺を見せ合うこのシーンは、ベイトマンが自分自身を他者と比較してどう捉えているかを象徴的に表しているのです。彼は完璧であることを望んでいますが、同僚の名刺が自分のものより優れていると気づいた時、激しい嫉妬心と不安に襲われるのです。

この名刺のシーンは、1980年代のビジネスマン社会が外見的な成功や富に過剰なまでに依存していた状況を風刺的に描いています。登場人物たちは本質的な価値よりも表面的なステータスにこだわり、それが彼らの人間性を覆い隠してしまっていることを象徴しているのです。

映画『アメリカン・サイコ』で起きる事件は、主人公の妄想だった?

映画『アメリカン・サイコ』では、主人公のパトリック・ベイトマンが次々と殺人を犯しているように見えますが、物語の終盤になると、これらの事件が実際に起こったのか、それともベイトマンの妄想だったのかが曖昧なまま終わります。この謎めいた展開こそが、映画最大のミステリーであり、多くの観客を議論へと誘うのです。

映画の中で、ベイトマンは次々と人を殺害し、その行為はエスカレートしていきますが、彼が現実にそれらを犯したのか、それとも精神的に追い詰められた彼の頭の中だけで起こったことなのかは明確には描かれません。例えば、彼がポール・アレンを殺害したと思い込んでいたのに、後にアレンがまだ生きているかのような描写があったりします。また、ベイトマンの犯行の痕跡が一切残っていないことや、彼の狂気が次第に非現実的なものへと変化していく様子なども、観客を混乱させる要因となっています。

この曖昧さは、映画のテーマと深く結びついています。ベイトマンは外見上は完璧なビジネスマンですが、内面では極度の孤独感や虚無感に苛まれており、自分の存在価値を確かめるために殺人という手段に走るのです。彼の行動が現実なのか妄想なのかが明確にされないことで、映画は現代社会におけるアイデンティティの不安定さや、外見と内面のギャップを浮き彫りにしているのです。

結局のところ、映画は観客に明確な答えを提示せず、ベイトマンの現実と妄想が入り混じる世界に引き込むことで、彼の狂気をより深く印象づける構造になっているのです。

映画『アメリカン・サイコ』の最後は、どういう意味?

映画『アメリカン・サイコ』のラストシーンは、多くの観客にとって非常に曖昧で、様々な解釈を生む余地が残されています。物語の終盤、主人公のパトリック・ベイトマンは自分が犯した殺人について告白しようとしますが、周囲の人々はその告白を真に受けず、完全に無視してしまいます。この結末は、ベイトマンの罪がまるで意味を持たないかのように描かれ、彼自身も自分が実際に何をしたのか分からなくなっているかのように見えるのです。

ラストシーンでベイトマンは、自己の存在が無意味であることに気づかされます。彼がどれほど残虐な行為に及んでも、それが社会に何の影響も与えないことを思い知らされるのです。冷酷な殺人者でありながら、社会から無視され、彼の行動に誰も注目しません。この瞬間、ベイトマンは自分の存在が虚しいものであり、どんなに恐ろしい行為を働いたとしても、周囲の無関心によって無価値にされてしまうことに気づくのです。

このラストシーンは、現代社会における孤独や疎外感、そして富や成功の象徴に囚われた人々が実際には自分の内面を見失っているというテーマを強調しています。ベイトマンの犯罪行為は単なる妄想かもしれませんが、彼の心の中の空虚さと、その空虚さが社会によって見過ごされてしまうというメッセージが、ラストシーンを通して強烈に伝わってくるのです。

結局、映画は彼が罪を償うこともなく、狂気に陥ることもないまま幕を閉じます。彼の告白は聞き流され、彼の存在は何も変わることなく、観客に虚しさを残して終わるのです。

映画『アメリカン・サイコ』はなぜ「意味不明」と言われるのか

映画『アメリカン・サイコ』が「意味不明」だと評される理由は、そのストーリー展開の曖昧さと、主人公のパトリック・ベイトマンが体験する出来事の現実性が最後まで明らかにされないことにあります。映画を通して、ベイトマンは数多くの殺人を犯しているように描かれますが、物語が進むにつれて、彼がそれらの犯罪を実際に行ったのか、それとも精神的に錯乱した彼の妄想の産物なのかが判然としなくなります。この曖昧さが観客に混乱を与え、「意味が分からない」と感じさせる主な原因となっているのです。

また、映画で扱われているテーマやメッセージも非常に抽象的なものです。1980年代のアメリカ社会における消費主義や外見至上主義、そしてアイデンティティの喪失などが風刺的に描写されていますが、これらのテーマが直接的に説明されることはありません。

そして映画のエンディングでは、ベイトマンが犯したと思われる犯罪行為が全て無視され、彼の告白も誰にも理解されないまま物語が幕を閉じます。この結末も多くの観客にとって納得のいくものとは言えず、さらなる混乱を招く要因となっています。

『アメリカン・サイコ』は意図的に現実と妄想の境界線を曖昧にしており、観客に解釈の余地を残す構造になっているのです。そのため、物語が難解だと感じる人も多く、「意味不明」という評価につながることがあります。

しかしこの曖昧さこそが、映画の特徴であり魅力でもあるのです。それは観客に現代社会の虚無感やアイデンティティの不安定さについて考えさせる重要な要素となっているのです。『アメリカン・サイコ』は、その独特の手法で現代人の抱える問題を浮き彫りにしている作品だと言えるでしょう。

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みんなの感想・レビュー

  1. 匿名 より:

    白を基調にした美しくも残酷な画面作り。センスある音楽と、過激な残虐描写など、見る者を選ぶ作風である事は間違いない。一見しただけでは内容全てを理解するのも難しいし、鑑賞後に残るなんともいえない後味の悪さも特筆すべきだろう。しかしこれはある意味コメディとして作られているのであり、そういった観点から見ると、非常に面白い作品でもある。決して大笑い出来るような映画ではないが、クスリと笑えるシーンは満載だ。特にクリスチャン・ベイルが全裸でチェーンソーを持って走り廻るシーンは、必ずや観客の心を摑む事は間違いないだろう。

  2. 匿名 より:

    ①アメリカの狂気

    タイトルからもわかる通り、今作「アメリカン・サイコ」はまさにアメリカの病巣をえぐるような作品となっている。27歳にしてウォール街の勝ち組として君臨するパトリック・べイトマン。彼は全てを手に入れた男のようであるが、しかしその実態は中味のないホロウマン(空虚な男)に過ぎない。外面を高級ブランドや高級マンションでまとい、健康食品やエクササイズなどで美しい見た目を維持する努力は怠らない。しかしそれは全て表面的な美しさに過ぎず、皮肉な事に内面の空虚さをより際立たせていってしまうのだ。

    しかも殺人鬼としての悪行の限りを尽くしたべイトマンは、最後までその罪を償う事すら許されない。一体彼はこれからどうやって生きて行けばいいのだろうか、という所でこの映画は唐突に終わってしまう。これほど後味が悪く、また皮肉の効いた作品はそうないだろう。

    非常に似たテーマを扱っているものにデビッド・フィンチャー監督の「ファイトクラブ」が挙げられるが、今作はより個人に焦点を当てたダークな作風となっているのが特徴である。

    ②演技派俳優クリスチャン・ベイル

    ロバート・デ・ニーロ並みに役に入り切る事で知られているクリスチャン・ベイル。彼は今作のために徹底的な肉体改造を施した。劇中でもその肉体があますところなく描かれ、今作で彼は一躍ゲイ世界のセックス・シンボルになったほどである。この後、SF映画の傑作「リベリオン」や激ヤセ映画「マシニスト」、そして「バットマン・ビギンズ」に出演して一躍スターに躍り出る事になる。

    ちなみに今作の監督のメアリー・ハロンは「Lの世界」「モス・ダイアリー」など、同性愛要素の強い作風で知られており、今作にもところどころにそういった要素が散りばめられているのも見逃せない。