映画『僕はイエス様が嫌い』の概要:少年・由来は、田舎の小学校に転校した。初めての礼拝に戸惑いながらも、見よう見まねでお祈りをする彼の目の前に、ある日小さなイエス様が現れた。注目の若手監督・奥山大史が脚本・撮影・編集を手がけた長編作品。
映画『僕はイエス様が嫌い』の作品情報
上映時間:76分
ジャンル:ヒューマンドラマ、ファンタジー
監督:奥山大史
キャスト:佐藤結良、大熊理樹、チャド・マレーン、佐伯日菜子 etc
映画『僕はイエス様が嫌い』の登場人物(キャスト)
- 星野由来(佐藤結良)
- 主人公の、無口でおとなしい少年。おばあちゃんと暮らすために両親と共に田舎に引越しをする。キリスト教は信仰していなかったが、イエス様が見えるようになってから頻繁にお祈りをするようになる。
- 大隈和馬(大熊理樹)
- 由来の同級生。クラスでも人気者の明るい性格で、サッカーが得意。由来にサッカーをして遊ぶことを提案し、友達になる。家はお金持ちで、別荘がある。お母さんに溺愛されている。
- 小さなイエス様(チャド・マレーン)
- ある日、由来の前に現れるようになる。主人公が祈ると現れ、願い事をすると消える。願い事を叶える以外にも、主人公の遊び相手として度々召喚される。喋ることはないが、現れているときはコミカルに動いたり遊んだりする、お茶目なキャラ。
- 大隈理香子(佐伯日菜子)
- 和馬の母親。和馬と仲がいい。いつも笑顔を浮かべており、「明るくて優しい母親」らしい雰囲気を出している。和馬の父親とは不仲で、電話越しで喧嘩をしていたりする。
映画『僕はイエス様が嫌い』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『僕はイエス様が嫌い』のあらすじ【起】
ある冬、おばあちゃんと暮らすため両親とともに引越し、田舎の小学校に通うことになった由来。そこはキリスト教の学校であった。転校初日の朝から礼拝に参加することになり、何が何だか分からないまま礼拝堂に向かう。牧師さんのお話もちんぷんかんぷんである。戸惑いながらも周りの人たちに合わせてお祈りのポーズを取ってみる。
内気な性格からなかなかクラスメイトと馴染めず、担任の先生からの励ましの言葉もありきたりである。おばあちゃんと暮らし始めた家族の食卓には、暗くて重い空気が漂っている。由来は家族に、友達はできたかと聞かれ、とっさにできたと嘘をついてしまう。
ある日、学校の礼拝堂にて朝のお祈りをしていたときから、由来の目の前に小さなイエス様が現れるようになる。そのイエス様に向かって「友達ができますように」と由来がお祈りをすると、イエス様はスッと姿を消してしまう。次の日学校に行くと、和馬に「サッカーをやろう」と声をかけられ、二人は雪が積もった真っ白な校庭でサッカーをして遊ぶ。イエス様に祈った通り、由来に友達ができた。
映画『僕はイエス様が嫌い』のあらすじ【承】
和馬と仲良くなってから、由来は毎日楽しく過ごし、性格も明るくなった。暗かった家族の食卓も明るくなり、和気藹々と会話が飛び交う。家族に、前に話していた友達を連れておいでと言われ、由来は和馬を家に招いた。由来の家で、二人は人生ゲームをして遊ぶ。和馬はゲームで登場する別荘に絡めて、自分の家の別荘に由来を招待する。
ある日、二人は流星群を見に夜の学校に出かけた。しかし、流星群はなかなか流れない。そこで由来は和馬の目を盗んで、お祈りをする。現れた小さなイエス様に、由来が流星群を見たいと願うと、流星群が流れ始めた。由来と和馬は教室の窓辺からそれを眺めた。
イエス様はなんでも叶えてくれるのだと確信し始め、由来はイエス様を呼び出し、お金が欲しいと祈る。すると、おばあちゃんが、おじいちゃんのへそくりを見つけたと言って1000円をくれる。由来は、これだけか、とつぶやき肩を落とす。
由来は和馬とそのお母さんと共に、大隈家の別荘に遊びに行く。暖炉やブランコがある、立派な別荘である。お母さんは、明るくてずっとニコニコしている、優しい人であった。
映画『僕はイエス様が嫌い』のあらすじ【転】
日に日に仲良くなって行く由来と和馬。和馬以外の友達ができない由来にとって、和馬は大切な友達である。由来は、和馬のおかげで気持ちも前向きになり、環境にも慣れ、イエス様との生活にも慣れてきていた。
そんな由来の平和な生活は、突如終わりを告げた。友達とサッカーをした帰り道、ネットに入ったサッカーボールをポンポンと蹴りながら歩く和馬。よそ見をしたまま車道に出た途端、高速で走っていた車に撥ねられてしまう。
由来は動揺を隠せないまま、昏睡状態となった和馬のお見舞いに行く。病室の和馬は管に繋がれ、深い眠りについているようだった。病室から出ると、優しそうだった和馬の母親が電話越しに、和馬の父親と激しい口論をしていた。
和馬を助けてほしいという一心でお祈りをする由来。しかし、いつもなら現れるはずの小さなイエス様が現れない。何度目をつぶって強く祈っても、現れない。そうこうしているうちに、和馬は息を引き取ってしまった。クラスの人気者だった和馬の死の知らせは、クラスメイトを悲しみの雰囲気で包み込んだ。
映画『僕はイエス様が嫌い』の結末・ラスト(ネタバレ)
和馬が亡くなって数日後、学校の礼拝堂で和馬の葬儀が行われることになった。和馬と一番仲の良かった由来は、クラスメイトを代表して葬儀の最後に行う挨拶を先生から頼まれる。
葬儀の日。参列した和馬の母親の顔からは笑顔がすっかり消え、絶望の表情を浮かべ無気力に座っている。牧師さんのお話が終わると、由来は壇上に呼ばれ挨拶をし、皆で祈りを捧げる。すると由来の目の前の聖書台に、小さなイエス様が現れる。以前と変わらないおどけた様子で立っているイエス様を、由来は祈りのポーズで指を組んだまま、手を振り上げ無表情に叩き潰す。
和馬がいなくなっても、前と変わらず過ぎていく生活。朝の礼拝にも毎日参加しなければいけない。由来は、和馬がいなくなってしまい、またひとりぼっちになってしまった。もう祈りは捧げない、小さなイエス様も現れない。和馬を思いながらサッカーボールを蹴って校庭に出ると、和馬と楽しくサッカーをしている情景が浮かぶ。
映画『僕はイエス様が嫌い』の感想・評価・レビュー
この映画は、叶えてほしいことを祈り、叶わなければ神のせいにするという、人間の純粋さや身勝手さを、子ども目線でわかりやすく表現していたように感じる。また、和馬の母親の裏表や和馬の死など、シビアな現実を突きつけるシーンがあった。これは、子どもも複雑な現実を見ているという、子どもの「大人な」部分が表現されていたのではないか。映像としても、家族の食卓の雰囲気や由来の性格の変化が、言葉がなくても被写体の動きや色彩から伝わる点が素晴らしい作品だ。(MIHOシネマ編集部)
みんなの感想・レビュー
そもそも目に見えるオチャラケた何でも願いを叶えてくれるイエス様が、本当の神様だったのですかって話だ。
ど~でもいい様な願いを叶えてくれる神様は、神とは言わない。
邪神若しくは低級霊。
監督の表現したかったテーマが何であったのかサッパリ理解が出来なかった。
ユラもそうだが、あんなに明るかった和馬の母親の変貌。
何の救いも無く終わってる。
結論は神への祈りは聞き届けられなかった。
そんな事は世の中の殆どの人間が周知しているし日常の事だ。
それを敢えて映画にしただけなのだろうか?
大局的な目に見えないイエス様の御心に迫るとか、理不尽な現実の中での信仰心を表現するとかでは無さそうだ。
監督は少なくとも神様に対する信仰心は無いと思われる。