映画『あしたの私のつくり方』の概要:『あしたの私のつくり方』は、真戸香による同名小説の映画。うわべだけの友達しかいない寿梨と、友達が一人もいない日南子が携帯メールでやりとりを始め、それは次第にお互いの拠り所となっていく。主演は成海璃子。
映画『あしたの私のつくり方』 作品情報
- 製作年:2007年
- 上映時間:97分
- ジャンル:ヒューマンドラマ、青春
- 監督:市川準
- キャスト:成海璃子、前田敦子、高岡蒼甫、近藤芳正 etc
映画『あしたの私のつくり方』 評価
- 点数:70点/100点
- オススメ度:★★★☆☆
- ストーリー:★★★★☆
- キャスト起用:★★★☆☆
- 映像技術:★★★☆☆
- 演出:★★☆☆☆
- 設定:★★★★☆
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映画『あしたの私のつくり方』 あらすじネタバレ(ストーリー解説)
映画『あしたの私のつくり方』のあらすじを紹介します。※ネタバレ含む
映画『あしたの私のつくり方』 あらすじ【起・承】
小学生の寿梨は、クラスの中では目立たない方で、クラスでいじめられている女子を見ては、友達の中で浮かないように、いじめられないようにすることだけを考えている。
寿梨は両親の勧めで中学受験をするが、落ちてしまう。自分自身に受験したいという思いはなく、喧嘩の絶えない両親のために受けたにすぎなかった。
受験のためしばらく学校を休んでいたが、久しぶりに登校するとクラスの中は様変わりしていた。いじめられていた女子はクラスの輪に溶け込み、反対に優等生で人気者だった日南子がハブられるようになっていた。
出る杭は打たれる。寿梨も卒業まで日南子を無視し続けた。
卒業式の日、図書室で日南子と二人きりになり、初めて本音で語り合った。
中学に進学しても日南子はハブられていた。そして、寿梨の願いもむなしく両親は離婚し、兄は父と共に、寿梨は母と暮らすことになった。
高校に進学した寿梨は、文芸部に入った。小説はなかなかうまく書けない。
そんな頃、クラスの女子の会話から日南子が山梨に引っ越したことを知る。その子から日南子のアドレスを聞いた寿梨は、その夜日南子にメールを送る。
映画『あしたの私のつくり方』 結末・ラスト(ネタバレ)
寿梨は、自分の名前を少しだけもじって「コトリ」と名乗り、日南子とメールのやりとりをするようになった。転校先で日南子が上手く周りに溶け込めるように、「ヒナとコトリの物語」として、人気者の友達「ヒナ」の話をする。
もちろん、「ヒナ」とは日南子のもじりだ。話の中のヒナは誰にでも好かれるような人気者。日南子は転校先の学校でコトリのアドバイスに従い、着実に人気者になっていく。
一方、寿梨は日南子とのメールのやりとり「ヒナとコトリの物語」を小説にする。顧問の先生にも褒められ、寿梨は順調に書き進めていった。
「ヒナ」のようにふるまうことで彼氏もできた日南子だったが、自分を偽っていることが不安になり、このままでいいのか悩む。
寿梨も、母に恋人ができ、自分の存在の意味が揺らぎ始める。そして、浮かないようにつとめていた学校では行事で学年代表のあいさつを任されることになり、不安定になっていく。
日南子は「コトリ」が寿梨だと気づいていた。二人はメールではなく電話で言葉を交わし、お互いに誰にも言えなかった想いを打ち明けるのだった。
映画『あしたの私のつくり方』 感想・評価・レビュー(ネタバレ)
映画『あしたの私のつくり方』について、感想・レビュー・解説・考察です。※ネタバレ含む
誰もが「自分」を演じている
日南子は元々、クラスの中心にいる人気者だったが、「優等生ぶって鼻につく」と女子を中心に無視されるようになっていく。反対に、それまで無視されいじめられていた女子はクラスに受け入れられるようになる。
日南子は、いじめられっ子を自分が演じてやっているのだと言う。そう思わないとやっていられないというのもあるが、人気者・いじめられっ子に関わらず、学校という小さな社会の中では誰もが与えられた役割を演じているものなのだと思い出した。
寿梨は、人気者でもいじめられっ子でもいじめっ子でもない、平凡な子。目立つ存在をただ外側から眺めている傍観者のような存在だ。寿梨のような立場が一番共感されやすいだろう。目立たないけど、友達がいないわけではない。でも窮屈。周囲から浮かないようにつとめていなければ、簡単にとってかわられる存在。
そんな寿梨がつくりだした「ヒナ」は、明るい人気者。これこそが、寿梨がなりたかった理想の存在なのである。
本音で語り合える友達とは
寿梨には友達が何人もいるが、うわべだけの関係でしかない。どうでもいいことは笑って語り合えるけれど、自分の内面をさらけ出すようなことは絶対できない存在。
寿梨と日南子は友達と呼べる関係だったのかすら怪しいが、小学校の卒業式の日、あれが初めて他人と本音で語り合った日だと思う。だからそれがいつまでものどに引っかかった魚の骨のように印象に残っていて、高校生になった今二人をまた引き寄せたのだろう。
このくらいの年頃だと、確かに本音で語り合う友達なんてそういない。成長するにしたがって理性がはたらき、傷つかない術を身に付けるようになって、自分を演じることが当たり前になっていくのだ。
大きな山場はほとんどない作品だが、思春期の女の子の心の機微がよく描けていると思う。
友達がいない私にとってこの作品は全く共感できない微妙なものでした。中学時代は仲の良い友人とそれなりに3年間過ごし、高校時代も同じく。しかし、大人になった今彼女たちとの関わりは一切無く、連絡先も知りません。学生時代の友人なんてそんなものだと思っている私には、正直イジメや順応なんてどうでも良いことだったので寿梨と日南子がお互いを心の拠り所、親友と思い合っているような関係も理解できませんでした。
人間関係で悩む人には何かアドバイスになりうる作品なのかも知れません。(女性 30代)
成海璃子と前田敦子の透明感が眩しく、心が清められました。本当の自分とは何なのか、青春時代のみならず社会人になってからも、悩み苦しむ人は少なくないでしょう。他人と関わる以上、どんな人も「自分」という人物を多少なりとも演じてしまうものではないかと思いました。所謂ガラケーでの長文メールやデコメール、新着メール問い合わせ等、90年代後半から2000年代初頭の時代感が素敵でした。鑑賞後はしばらく懐かしみを味わいました。(女性 30代)
高校生だった頃から四半世紀以上が経ってしまった自分には、延々と続くように思えた学生時代というのは眩しいばかり。それにしても同じような邦題を持つ洋画の多いこと。それだけ多くの人が、自分であるとか自分の人生を「つくったり」あらたに「はじめたり」したいと思っているということだろうか。探さなくても本当のあなたはそこにいるし、友達ってつくるものではなく「なる」ものだと思うし、無理につくらなくても問題なく暮らせるのだけど、そこにこだわらずにいられないのが青春なのか。(男性 40代)
映画『あしたの私のつくり方』 まとめ
ストーリーや設定は面白いが、メールのやりとりのシーンで画面を分割してみたり、最後のテレビ電話の演出は微妙。一番の見せ場のはずなのにダサいのが残念だった。
主人公を演じている成海璃子は、この時14歳くらいだが、小学生から高校生まで幅広く演じ分けていてさすがの演技。実年齢よりも上の役でも上手くこなすし、繊細な演技が上手い。この作品が映画初出演となった前田敦子は、現在のイメージとは全く違っていて、あどけないというかあか抜けない感じが役のイメージに合っていた。
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