映画『バスキア、10代最後のとき』の概要:27歳の若さでこの世を去った天才アーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアの秘密に迫ったドキュメンタリー。無法地帯と化したニューヨークで生きた彼は、多くのアーティストに影響を与えた。同じ時代を生きた人々により、知られざるバスキアの側面が明かされる。
映画『バスキア、10代最後のとき』の作品情報
上映時間:79分
ジャンル:ドキュメンタリー
監督:サラ・ドライヴァー
キャスト:ジャン=ミシェル・バスキア、アレクシス・アドラー、ファブ・5・フレディ、リー・ジョージ・クイノーネス etc
映画『バスキア、10代最後のとき』の登場人物(キャスト)
- カルロ・マコーミック
- 文化批評家。破綻したNYの状況を分析し、荒廃によって誕生した文化としてのストリートアートを解説する。
- コリーン・フィッツギボン
- 画廊に属さない無名のアーティスト達による共同プロジェクト「COLAB」を設立した一人。バスキアとは、よくクラブで会っていたと言う。
- ジム・ジャームッシュ
- 映画作家。1980年に『パーマネント・バケーション』でデビューし、『ナイト・オン・ザ・プラネット(1991)』、『コーヒー&シガレッツ(2003)』などの監督を務める。
- パトリシア・フィールド
- ファッションデザイナー。サラ・ジェシカ・パーカーと出会い、ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』の劇中衣装を担当。『プラダを着た悪魔』で使用した衣装でも高い評価を受ける。
映画『バスキア、10代最後のとき』のネタバレあらすじ(ストーリー解説)
映画『バスキア、10代最後のとき』のあらすじ【起】
1978年、財政破綻を迎えたニューヨークは衰退し、荒廃と汚染が進んでいた。文化批評家のカルロ・マコーミックは、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドこそ、荒れたニューヨークの縮図であったと考える。白人が郊外へ移住していったため、アパートの入居率は20~30%を下回った。収入に困った大家達が、アパートを燃やして保険金をせしめようと考えていた程だ。
当時、セントマークスのアパートに住んでいた作家、リュック・サンテは、近所のバーにあるジュークボックスにボビー・ヴィントンが揃っていたのを覚えている。店の扉が開いていると、その音楽が街中に響き渡る程、周囲は静まり返っていたと言う。
作家のジェニファー・ジャズは、ロウアー・イースト・サイドは温かい街だったと当時を振り返る。公園でたまたま出会った人とベンチで一日過ごしたり、誰とでも親密になれる街だったと言う。
アーティストのジェームズ・ネアーズは、パンクが生まれたことによって、音楽シーンが突然に変化したと語る。当時の若者は、旧守派と新しい未知の分野へ進む者の二つに分かれていった。
映画『バスキア、10代最後のとき』のあらすじ【承】
ニューヨークを覆った貧困や犯罪、それに伴う危険は、誘惑的な要素として冷めた価値観を持つ世代を引き付けた。カルロ・マコーミックは、混乱を求めリスクを冒し、危険を追う彼らを未来無き(ノーフューチャー)世代と位置付けている。ジェームズ・ネアーズは、こうした混乱した中で自己表現を行っていたアーティスト達は、皆が互いを見知っており上手くやっていたと振り返る。
コレクター、メアリー・A・モンフォートンは、当時のアーティスト達がマッド・クラブの二階に集まり、互いに興味のあるテーマを話し合っていたと語る。映画作家やミュージシャン、画家達には多くの共通項があった。
キュレーターのディエゴ・コルテスは、1970年当時、ダウンタウンのアートシーンで他の文化が注目され始めていたと言う。従来のヒエラルキーが崩壊した都市には、黒人文化や都市文化が広がり、それらはアートの世界にも入ってきた。白人男性の時代はもはや終わっていたのだ。
そんな中ジャン=ミシェル・バスキアは、マッド・クラブをはじめティアー3やCBGBなど、あらゆるクラブに顔を出していた。
映画『バスキア、10代最後のとき』のあらすじ【転】
COLAB共同設立者であるコリーン・フィッツギボンは、クラブで出会った彼を物静かな男だったと語る。
映画作家のジム・ジャームッシュは、恋人のサラと散歩していた時にバスキアから「何してるの?」声を掛けられたと言う。そう言って去ったバスキアは、どこかの店で盗んだであろう赤い花を持って再び彼らの前に現れると、サラに花を渡してまた消えた。
アーティストのアル・ディアスは、バスキアが16歳になる数か月前に彼と出会い、意気投合した。家を持たず路上で暮らしていたバスキアは、自己表現が上手で言葉に拘っていた。アルは、バスキアとSAMOという合言葉を考え、グラフィティとして壁に残した。しかし、雑誌に取り上げられた作者不明のSAMOが好評を博すと、バスキアはアルに断らず自分が作者だと名乗り出た。アルはそれが口惜しく、バスキアと仲違いした。
グラフィティは、ニューヨークに大きな影響を与えた。バスキアはアート界に近付くため人にまとわり付き、様々な手法で創造的エネルギーに溢れるグラフィティを描き続けた。家を持たないバスキアにとって街はカンバスであり、居候した先の家具もアートになった。「有名になる」が口癖だった彼はSAMOで注目されたが、そもそも注目のされ方を分かっていたのだ。
映画『バスキア、10代最後のとき』の結末・ラスト(ネタバレ)
ファッションデザイナーのパトリシア・フィールドは、バスキアは哲学を持っていたと振り返る。SAMOの流行が終わるのを一早く察知したバスキアは、ブランドとコラボしてショーウィンドウを作品の周知に利用しようと考えた。彼は大衆に自分の言葉を届ける方法を探しており、公的空間の持つ特性を理解していた。
バスキアは、コラージュにも没頭した。バスキアとアーティストのキース、ミュージシャンのファブ・5・フレディによって結成されたグループが作成したポストカードは、アンディ・ウォーホルも購入した。彼らにとってヒーローであるウォーホルが、バスキアに注目したのである。
1980年に開催されたタイムズ・スクエア・ショーには、75人を超えるアーティストが作品を展示した。バスキアは、壁にかける作品を出品するため会場の壁に直接下書きを描いたが、訪れた画商はその下書きを評価した。
翌年開催されたバスキアの個展「ニューヨーク・ニューウェイブ」は大成功だった。彼は初めての展覧会で一躍有名になった。
バスキアは、グラフィティを描く際もカンバスに絵を描く際も、わざとインクを垂らす。子供のように思うまま手を動かし、スピードを重視する彼は「時間が無い」と感じていたのかもしれない。バスキアは、時の流れの速さを恐れて、命と創作の車輪をハイスピードで回していたように見えた。
ジム・ジャームッシュは、バスキアを「彼こそ本物のアーティストであり、視覚的アイデアの探索者だ」と表現する。かつてバスキアを居候させていたミュージシャン、フェリース・ロザーは「アート界で彼は成功したの。白人が居座っていた重い屋根を吹っ飛ばした」と語った。
映画『バスキア、10代最後のとき』の感想・評価・レビュー
バスキア本人の映像はほとんど使用されていないが、彼と同じ時代を生き彼を愛したアーティスト達による回想から、バスキアがどんな姿勢でアートと向き合っていたかを知ることができる。
ジム・ジャームッシュが彼と親しかったのは、驚きと同時に納得できた。荒廃し寒々しい街となったニューヨークだが、本来街が持っている明るさを作品に込めるのが彼らである。この作品を鑑賞してみて初めて、『コーヒー&シガレッツ』にバスキアの絵と似た空気を感じた。(MIHOシネマ編集部)
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