映画『イージー・ライダー』あらすじとネタバレ感想

イージー・ライダーの概要:ハリウッド映画とは、一線を画す“アメリカ映画”の金字塔。1960年代後半~1970年中頃までブームを巻き起こしたアメリカン・ニューシネマの代名詞的作品。監督にはデニス・ホッパー、脚本はホッパーとピーター・フォンダの共同脚本。主演の2人の他にジャック・ニコルソンも共演。主題歌ステッペン・ウルフの『Born To Be Wild(ワイルドで行こう)』は、今尚色褪せない名曲だ。

イージー・ライダー あらすじ

イージー・ライダー
映画『イージー・ライダー』のあらすじを紹介します。

あるメキシコの廃れたバーにやって来た2人の男。1人は背が高く、もう1人は背の低い男。彼らは、メキシコからアメリカのカリフォルニア州にある大都市ロサンゼルスに麻薬を密輸するために、このバーに訪れたのだ。メキシコの麻薬王からコカインをもらい受け、それの密輸に成功した彼らは、大金を手にし、マンディグラ(謝肉祭)が行われるルイジアナ州ニューオリンズを目指して、大型バイクに跨り彼らは、旅に出る。

大型バイクのハーレー・ダビッドソンのタンクの中には、コカインで手にした大金を隠す彼ら。彼らの名はワイアットことキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)。65年型のハーレー・ダビッドソンのボディには、愛国心を象徴するようにアメリカ国旗の星条旗がペイントされている。メットもまた、星条旗柄だ。コロラド川を横目に、アリゾナ州境を大型バイクでかっ飛ばす。朝から何百キロも移動した彼らは、モーテルに1泊しようとするも、彼らの風貌を見て、モーテル側が彼らの利用を拒否してしまう。渋々、野宿をする2人。この当時、彼らはアウトロー的な存在。それでも、普通の若者と同じように夢があり、楽しみがある。目的の謝肉祭では何をするのか、何が楽しみなのか、焚き火を囲んで語らう2人。

翌日、バイクのタイヤがパンクしたことに気付いた2人は、ある農家に訪れ、パンク修理をすることに。この農家はカトリック教徒。ここで彼らは、昼食を頂くことに。また、大型バイクに跨り、目的地ニューオリンズを目指して旅をする。そのまた道中、ヒッチハイカーを拾った彼らは、3人で旅をすることに。砂漠地帯を遥々、東へ東へと距離を縮めて行く彼ら。この夜もまた野宿だったが、仲間が1人増えての3人での野宿。親交を深める彼ら。翌朝、ワイアットとビリーは、また寄り道を。ヒッチハイカーというのは、ヒッピーで、彼の目的地は、ヒッピー達が集うコミューンだった。謝肉祭への参加以外に、特に予定のない彼らは、ここでも寄り道をする。ヒッチハイクで拾ったヒッピーの男性だけでなく、コミューンで暮らすヒッピー達と交流する。川で泳いだり、食事を共にしたり、ヒッピーの女性と軽い恋仲になったりと、それぞれの気ままな楽しい時間を過ごす彼ら。

またもや彼らは、目的地を目指してバイクを飛ばすも、その道中今度は、小さな町で行われているパレードに無許可で参加したことで、警官に捕まり、留置所に収容されてしまう失態を犯してしまう。偶然の彼らと同じ留置所で拘留されていたジョージ・ハンセン(ジャック・ニコルソン)と意気投合し、彼の口聞きで釈放されることに。ジョージは酔った勢いで暴れて、拘留されていたらしいが、この廃れた町では顔の聞く弁護士だった。そのお陰で、ワイアットとビリーは釈放された。目的の謝肉祭の参加の話を聞いたハンセンは、一緒に行きたいと申し出る。こうして新しい仲間と共に、彼らは目的地を目指してバイクをまた、飛ばすのだった。

道中立ち寄ったレストランで、彼らはひどい差別を受ける。それは、彼らのアウトローを象徴するような身なりが原因だった。不愉快に感じた3人は、その店を後にする。その晩、野宿をしていた場所に、昼間店で出くわした差別的発言を繰り返した人間の集団がやって来て、就寝中のワイアット等を袋叩きにするのだった。ひどい暴力の後、何の罪のない弁護士ハンセンが、死亡してしまう。ここにこそ、アメリカが抱える不条理さが存在する。亡くなったハンセンの意思を次いで、彼らはニューオリンズにある娼館へ赴いた。もう街では謝肉祭が始まっていた。でも、楽しむ余裕のないワイアットは娼婦メアリー(トニー・バジル)と共に街に出るのだった。

謝肉祭では、娼婦のメアリーやカレン(カレン・ブラック)ら共にLSDを使用し、その幻覚を体験することに。謝肉祭を十分楽しんだ彼らは、その街を後にし、またバイクの旅を楽しむのであった。大金を手にして喜ぶビリーとは反対に、ハンセンの死後、どことなく浮かない顔をしているワイアット。でも何を思っているか言葉にはしない。きっとアメリカの現状の不条理さや矛盾について、深く感じるところがあるのだろう。ハンセンが死ぬ理由なんて、どこにもなかったからだ。

次の目的地は最終目的地フロリダ。彼らはその地でアウトローを引退し、麻薬で手にした大金で余生を過ごそうと夢見る彼らのアメリカン・ドリームは叶うことはなかった。夕日をバックにバイクを走らせる2人を前にアメリカを象徴とする典型的な白人が、トラックに乗って現れる。アウトローに見えるワイアットとビリーの姿は、彼らから見たら異端児に見えてしまう。そして、ライフルを片手にその白人はビリーに銃口を向けるのだった。ビリーもろとも、ワイアットもその銃弾に倒れるのだった。

イージー・ライダー 評価

  • 点数:70点/100点
  • オススメ度:★★★★☆
  • ストーリー:★★★★☆
  • キャスト起用:★★★★☆
  • 映像技術:★★★☆☆
  • 演出:★★★☆☆
  • 設定:★★★★☆

作品概要

  • 公開日:1969年
  • 上映時間:95分
  • ジャンル:アクション、ヒューマンドラマ、青春
  • 監督:デニス・ホッパー
  • キャスト:ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、アントニオ・メンドーサ、ジャック・ニコルソン etc

イージー・ライダー ネタバレ批評

映画『イージー・ライダー』について、感想批評です。※ネタバレあり

映画を比較して楽しむ意義

この映画『イージー☆ライダー』の関連事項は、既出のものが多く、それ以外で特筆することがあまりない。この作品がアメリカン・ニューシネマの代名詞的映画ということ、排他的社会の不条理さ、アメリカの自由や夢とは何か、差別的要素を含む内容や白人至上主義への警鐘など、当時のアメリカが抱えていた問題や求めていた事柄をストーリーに盛り込まれているが、上記でも記述したように、これらの項目はすべて、既出の事実だ。誰もが知っている周知のことだ。そんな有名な話を深く掘り下げても、そう面白くない。なので、私は少し視点を変えて、この作品について記述したいと思う。

前にも、私は一つの映画に対して、様々な映画と比較し、中心にある映画をより深い見地で考察することをモットーにしている。そうすることで、本来の映画の良さや楽しみ方を再発見できるからだ。この映画『イージー☆ライダー』でも、他の映画作品と比較して、楽しむことができる。ここで比較したい作品は同時期に制作・公開された『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』と言う作品についても触れていきたい。この作品もまた、アメリカン・ニューシネマの代名詞的存在だ。この作品と本稿の作品『イージー☆ライダー』が、アメリカン・ニューシネマに対するムーブメントが起きたきっかけとなった2つの作品だ。『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』は実際に存在した犯罪者男女2人の逃避行を描いたロード・ムービーだ。各地で銀行強盗を繰り返しながら、自堕落な生活に陥ってゆく様が、象徴的だった。ラストシーンで2人に浴びせられる87発の銃撃シーンが、衝撃劇的に魅了される名シーンだと、今も語り尽くされている。このシーンこそが、アメリカン・ニューシネマの起源だと、言及しても過言ではないのです。

さて『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』と『イージー☆ライダー』の比較ですが、この両者は、とても多くの共通点が存在しています。

1,テーマが犯罪

『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』:銀行強盗
『イージー☆ライダー』:麻薬の密売

2,ロード・ムービー

『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』:車での逃避行
『イージー☆ライダー』:大型バイクでのアメリカ横断

3,アウトローとしての生き様

『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』:犯罪で大金を入手
『イージー☆ライダー』:犯罪で大金を入手

4,混沌としたアメリカ社会

『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』:世界恐慌時代、大不況時代
『イージー☆ライダー』:ベトナム戦争中期、ケネディ大統領暗殺、カウンターカルチャー

5,衝撃のラスト

『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』:主人公死亡、衝撃の銃撃シーン
『イージー☆ライダー』:主人公死亡、アウトサイダーの風貌が原因

6, 両作とも犯罪者を英雄視していることが窺える

以上、上記6つの項目は、映画的見地から見て述べているが、番外編でも共通項目が存在するのです。両作とも主演、助演関わらず、多くの若手の役者が、公開と同時にスターとなり、知名度のあがった役者ばかりだ。『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』では、主演のウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ。助演のジーン・ハックマン、エステル・パーソンズ等、多くの役者がこの作品をきっかけとして注目を浴びた。『イージー☆ライダー』でも、ピーター・フォンダが有名に、デニス・ホッパーが本作で監督デビューを飾り、デビュー仕立ての若手のジャック・ニコルソンもまた、この1本で注目を得た。それぞれの作品で、多くの若い俳優が役者人生のスタートを切っているという点も着目したい。特に、『シャイニング』や『カッコーの巣の上で』等で怖い・悪いと言うイメージが定着していたJ・ニコルソンが酔っ払いだが、真面目な弁護士役を快演しているのは、今までのイメージを払拭させてくれている。当たり役ではなかったが、とても印象的なジャック・ニコルソンの姿を見ることが出来る。

話は変わるが、両作の類似点でもう一つ注視する箇所があるとするならば、アメリカがよく映画の中でも描く犯罪者たちをヒーローとして描く英雄視的要素が、どちらの作品にも言及できる。まるで、アンチイズムを美化しているような、世の中のアウトサイダーがカッコいいと英雄視しているところが、反ってアメリカに対しての不信感を増殖させている。罪を犯す者が、本当にヒーローなのか?それを象徴している名台詞が『イージー☆ライダー』の中で語られている。野宿をする弁護士のハンセンと彼ら2人。ビリーが世の中の人間に対し「やつら何をビビッているんだ」と。その答えをハンセンが「君が象徴しているそのものさ。君に“自由”を見るんだ。自由を説くことと、自由であることは別だ。アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気でする。個人の自由についてはいくらでもしゃべるが、自由なやつを見るのは怖いんだ」と、我々が求める自由について分かり易く述べている。本作を観た日本のある監督はこう発言をしている「自由には2種類ある。“Liberty”と“Freedom”の意味合いは少し違う」と。前者はある制限、憲法や法律、社会ルールの範疇の中での自由。後者は様々な抑圧、制限などのない広い意味での自由。本作『イージー☆ライダー』では、後者“Freedom”の考えが妥当かもしれない。私が思うところは、社会一般の人々が、ある制限の中で自分たちがしたいことをする自由を心得ている反面、犯罪者はその制限でさえ掻い潜り自由の限り、自分たちのしたいことを自由にやってしまう。その構図から推測すれば、一般市民の目線から映画の中の主人公たちが犯す犯罪は、ある意味羨望の眼差しで見つめてしまうのも無理がないものだ。それが、上記で述べた“英雄視”として捉えることが出来てしまうのだろう。

英雄視と言う視点から物事を考察すれば、日本でも映画に似たような事象が起きていている。本稿では、事件の概要や事件名は伏せておきたいが、過去に日本を揺るがす衝撃の猟奇的殺人事件が起きた。法律までも、改正させてしまうショッキングな事件だったことを覚えている。当時、犯人も年端の行かない少年だったことも、世間に衝撃を与えていた。あれから20年近く時が経ち、彼自身更正したかと思われたが、また世間を驚かせる行動を取っている。それは、彼自身が過去に起こした事件の手記を出版し、世間から大きな批判を浴びた。またその興奮が冷めないうちに、今度は自身のホームページを開設したことに、もう開いた口が塞がらない思いだ。世間を嘲笑うかのように、被害者や被害者家族の心情を無視して、彼は自分のしたいことをやりたい放題している。そこに本当に、個人の自由、言論の自由が存在するのか、疑問だ。上記で述べている“Freedom”こそが、今の彼自身なのかもしれない。そんな彼の行動に世間も、マスコミも批判的な思想を抱いている。彼の行動に注目している。だがそこに、大きな落とし穴が存在していると私は思う。事件のニュースが過熱的になり、大きく報道されればされる程、彼自身がその事件の当事者であることに対し、陶酔していることは間違いないだろう。ある意味、世間もマスコミも彼を知らず知らずのうちに英雄扱いしているのではないだろうか?それが、彼の行動に拍車を掛け、私たちが思いもしない行動を取っているのではないだろうか?私が思うに、彼は誰かを傷つけよう、誰かを悲しませようとしているのではなく、ただ事件の中心的人物として、注目を浴びることが、彼自身の目的だったのかも知れない。ただ本稿は彼の批判も賞賛もするつもりはありません。ここで注目して欲しいのは、犯罪者を英雄視、英雄扱いする世間に、私は疑問を抱いているのです。世間が騒げば騒ぐほど、犯罪者は注目を浴びようと、行動を取るのではないでしょうか?本作『イージー☆ライダー』と『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』でも、上記で述べた事件の事柄でも、どちらも中心の人物がまるで持て囃されているかのような扱いを受けているが、そこにこそ人間心理が働いていると思うのです。私たちは決められた自由の中で自由を楽しむ反面、彼らはその規制をも越えて、自分の欲望赴くままに、殺人でも何でも行ってしまう。犯罪を犯罪と思わずに何でも出来るのが、やはりある意味で羨望の眼差しで見つめてしまうのではないでしょうか?ただ、上記の映画の主人公と、本稿で述べた事件の犯人には、大きな違いがあります。それは、彼らの目的意識でしょう。映画の中の主人公は、時代背景(世界恐慌とベトナム戦争末期)もあるとは思いますが、世の中への抗いや大金を手にして金持ちになりたい等、独自の目的があったが、その反面、あの事件の犯人には、目的等一切ありません。ただ注目を浴びたい、有名になりたいと浅はかな思惑が、あの凶悪な事件を産み出したのではないでしょうか?

何をするのも、個人の自由だが、やはり犯罪は犯罪。どんな人間でも、裁かれるべきこともあるのです。それが、映画の中のラストで描かれています。彼らは、退廃したアメリカの片隅で、銃口を向けられて、彼らの犯罪行為が悪であると、裁かれます。目的があろうとなかろうと、そのラストが、犯罪者が歩んだ末路なのでしょう。

名優ピーター・フォンダと、アクション俳優シルベスタ・スタローンの類似点

今でこそアメリカを代表する名優になったピーター・フォンダ。近年は目立った活躍はしていないが、数多くの作品で主演・準主演を好演してきた俳優だ。彼の代表作には、本作以外にもたくさんあります。『キャノンボール』『怒りの山河』『ダイヤモンドの犬たち』など。ただ残念ながらニューシネマ・ブームの崩壊と共に彼の人気・知名度も下落し、この作品以降、B映画ばかりの出演が続き、なかなか芽が出ることがなかった。それでも、彼は間違いなく名優だろう。そんな彼のデビュー作は『タミーとドクター(63)』という作品。この映画ではエリート好青年を演じ、その後の作品もそれに似た役柄が多く当てられたが、自身が思い描く俳優像と掛け離れていたことにひどく悩んでいたと言う。そんな時、B級映画の帝王ことロジャー・コーマンに声を掛けられ、彼の傘下でもあるアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)の制作の基、公開されたB級映画『ワイルド・エンジェル(66)』にて主演に大抜擢。翌年には、またコーマンと組んだ『白昼の幻想(67)』にて主演を演じた。この作品には後に『イージー☆ライダー』でタッグを組むことになるデニス・ホッパーが役者として、ジャック・ニコルソンは脚本家として参加していた。この出会いがきっかけで、名作『イージー☆ライダー』が産まれたわけだが、本作を生み出したのは、他でもないピーター・フォンダ自身なのだ。この作品の企画を持ち出し、見事、監督・主演・制作の3本柱を任せられることに。当時、名の知れた俳優だったが、まだまだ新人だった彼が一躍時の人となった。自ら企画し、制作した作品が大ヒットし、その年の賞レースでも注目され、アカデミー賞では受賞には至らなかったものの、助演男優賞と脚本賞にノミネートされる等、当時、アメリカのみならず全世界でこの映画の斬新が衝撃を与えたことよく分かる。今では、映画史に燦然と輝く傑作だ。

若手ながら、企画、制作を担当し、主演までこなしたピーター・フォンダ。そんな彼によく似ている役者が、いることを皆さんは、ご存知でしょうか?その役者は、今でも現役でアクション俳優として活躍しているシルヴェスター・スタローンだ。彼の代表作には『エクスペンダブルズ』シリーズ『ランボー』シリーズ等、アクション映画のシリーズ物が大半を占めるが、彼の出世作となった『ロッキー』シリーズを忘れてはいけない。スタローンは1970年にポルノ映画でデビューしているが、極貧の余り日銭を稼ぐために出演しただけと、後に語っている。デビュー後はなかなか芽が出ず、長らく下積み生活を送る。その間、受けたオーディションは実に54回。典型的なシチリア人の風貌が原因だったため、オーディションに落ち続けた。なかなかいい役に恵まれなかったスタローンだったが、75年に公開された『ロッキー』1作目で一躍人気者に。だが、この作品の制作裏には、彼の並々ならぬ努力があった。74年に公開された『ブルックリンの青春(日本劇場未公開)』で準主役を演じ、批評家たちの目に留まり、高評価を受ける。それを機に、ハリウッドに移り住んだスタローンは、そこでボクシングの試合を観戦し、それに感銘を受けて、3日である一つの脚本を完成させる。その完成した脚本を持って、映画会社に売り込みに行った。興味を持った映画会社が、一級スターを主役に据えた大作映画として制作しようとしたが、スタローン自身を主役にしないなら脚本は渡せないと、彼は大きな賭けをした。その結果、彼はこの作品の主役に起用されることに。それがかの有名な『ロッキー』の始まりだ。

『イージー☆ライダー』と『ロッキー』。まったく映画の主体性が似てないような映画だが、ここにも類似点が存在する。それはピーター・フォンダもシルヴェスター・スタローンも、無名の新人でありながら、自ら企画した作品が、出世作となり、代表作であるということは、周知の通りだが、彼は役者人生は別々の道を歩んでいる。『イージー☆ライダー』でスターとなったピーターは、その後アメリカン・ニューシネマの衰退と共に、作品にも恵まれず、B級映画の出演が多くなり、デビュー期の人気は落ちて行った。長らく低迷期を過ごし、90年代後半『木漏れ日の中で』と言う作品の演技が認められ、ゴールデングローブ賞の演技部門でノミネートを受ける。その後は俳優だけでなく、プロデューサー、脚本家、監督としてマルチな才能を発揮しており、テレビドラマにも活躍の場を移すようにもなったが、これと言って目立った活動はしていない。その反面、スタローンは『ロッキー』のヒット後、一時低迷期を迎えるものの、その後制作、公開された『ランボー』シリーズは大ヒットし、単発映画にも顔を見せる機会が増えていった。現在の活躍は周知の通りで、『エクスペンダブルズ』シリーズでは今までライバル視していた(よき友でもあるが)アーノルド・シュワルツネッガーと初共演を果たしている。長年のファンには、嬉しいばかりのサプライズであっただろう。

2作品をここで比較してみて、浮き彫りになったのは両役者の役者人生の浮き沈みでしょう。それを物語っているのは、両映画のラストで分かるはずです。これら作品に共通して言えるキーワードは“アメリカン・ドリーム”なのです。『イージー☆ライダー』で描かれたラストは、アメリカン・ドリームを掴めなかった若者が、銃弾に倒れ、息絶えます。それとは逆に『ロッキー』では試合で優勝し、何もかも手に入れた若者が、最後に手にするもの、それが“アメリカン・ドリーム”なのです。“夢”を掴めなかった若者と、それをこの手で掴んだ若者。この大きな違いは、彼らの役者人生にも大きく影響していると、私は思います。どこで明暗が分かれたのは、分かりませんが、彼らは彼らの人生そのものを予期もせず、映画の中で演じていたのです。これらの映画は、彼らの人生そのものを写しているようにも見えます。この2つの映画を通して、映画業界の真の怖さを知ることが出来るでしょう。成功する者と、成功しない者。ただ、彼ら2人はアメリカ、ハリウッドを代表する“名優”なのは、間違いないだろう。

イージー・ライダー 感想まとめ

『イージー☆ライダー』が、そこまで言うほど面白いかと聞かれれば、私は正直に面白くないと答えるでしょう。ただバイク好き、アクション好きには映画の“カッコよさ”が伝わってくるはずです。でも、私が述べるのは烏滸がましいが、歴史的作品と言う観点から見れば、実によく出来た作品だ。ベトナム戦争、公民権運動、黒人差別、徴兵制度など、当時アメリカが問題になっていたことをアイロニーを踏まえて、表現している反面、ヒッピー、フラワー・ピープル、LSD、マリファナ等、自由を象徴するキーワードも数多く散りばめられている。でも、実際にマリファナを吸っているらしいが、その演出は当時でこそ斬新だったからこそ、B級映画でもヒットしたのでしょうが、今の時代にこんな映画があるとすれば、間違いなく映倫に引っかかり、R指定のかかる作品として扱われ、当時のようなヒットには結びつかない作品になると、私は思います。

バイクに跨る姿やマリファナを吸うシーン、ステッペンウルフの『Born To Be Wild(ワイルドで行こう)』がカッコいい印象があるが、それ以上にカッコいいのは、どんな形であれ、夢に向かって走り続ける男の背中が、一番カッコよく映るのです。最後に、余談ですが、洋楽好きには、本作のサウンドトラックが、おススメです。

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コメント

  1. 福田 文夫 より:

    この映画の最初の出だしで若者二人のバイクツーリングの為の資金を麻薬の密売で得ています(不法行為)がこの部分は必要無かったのではないでしょうか?
    ラストで二人とも無意味な銃撃で射殺されますが、ここで殺されることにある意味で理由付けされてしまいます。
    しかしこの映画で訴えたかった事は「金で動く者は自由になれない」自由を求める臆病者は「本当に自由に生きる人間を見るのは怖い」と言う事だったと思います。